電子書籍 〈季刊 道 シリーズ〉

 

命の伝言

― 戦火を生き抜いて ―

 

 

季刊『道』編集部

 

電子版定価 本体2,000円

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[ペーパーバック 『命の伝言』 ]

A5判 236ページ 本体 3,000円

戦禍を生き抜かれた方々が語る、戦争の理不尽さ、悲惨さ、命の尊さ。大切な生かされた命だからこそ、伝えたい思いがある。

貴重な証言インタビュー集。

(本書は、季刊『道』に掲載したインタビュー集です)

目 次

園田天光光 日本初女性代議士 元外相夫人
やり抜く意志が肚をつくる

中沢啓治 『はだしのゲン』作者
広島原爆の惨状を生き抜いて 踏まれて育つ麦のように強くあれ

坪井 直 日本原水爆被害者団体協議会代表委員/広島県原爆被害者団体協議会理事長
ネバーギブアップ!「命が一番!」の祈りがかなうまで

谷口稜曄 長崎原爆被災者協議会会長
「原爆を背負い続け67年」 笑顔の奥にあるものを伝えたい
苦しみ憎しみを乗り越えて今こそ核廃絶への思い

山里和枝 沖縄戦 語り部
沖縄の祈り 語り伝えるために生かされて

根本益伊 軽巡洋艦五十鈴乗組員
命をつないだ一本の手拭い

木村 孝 中国帰国者定着促進友の会 元事務局長
終戦から始まった戦禍 ― 8月9日ソ連侵攻~引き揚げまで ―

原田 要 最後の零戦パイロット
命をかけた 平和を守り抜くために

太田リセ 日本赤十字社従軍看護婦
軍国少女、あこがれで看護婦に

金子兜太 元海軍主計大尉/俳人
信念のままに伝え続ける 反戦の思い

木内信夫 元陸軍飛行兵/シベリア抑留生存者
世界の人は みんな仲良くなれるのです

三村 節 シベリア抑留体験者
絶望の中を生き抜いて 未来永劫の平和を守るために

 

メッセージとプロフィール

日本人が本来持っていた人間としてのぬくもりというものを失ってきている。
心がひからびた日本人になりつつある。

だから今度はその心の貧しさ、ひからびた心が餓死していると思うのよ。

だから「心の餓死防衛」をやる時期じゃないかしらと思いますね。

園田天光光  そのだ てんこうこう

大正8年(1919)1月23日東京生まれ。
青山学院高等女学部、東京女子大学、早稲田大学法学部卒(昭和17年)。戦時中に海軍嘱託勤務を経て、昭和21年4月、餓死防衛同盟から戦後初の総選挙に出馬し初当選。その後、日本社会党、労農党から出馬し連続3回当選する。
昭和24年12月、衆議院議員園田直氏と結婚。園田氏の死後は、日本ラテンアメリカ婦人協会会長など多くの公職を務める。現在、同協会名誉会長、竹光会会長、NPO育桜会名誉会長、「世界平和大使人形の館」をつくる会代表。1989年勲三等宝冠章受賞。

 

何があっても戦争という手段は絶対使ってはいかん。

そのことを日本人はね、
世界に広めていかねばならないのです。

中沢啓治  なかざわ けいじ

昭和13年(1938)広島市生まれ。1945年8月6日、小学校1年の時に被爆するが奇跡的に助かる。戦後は、漫画家を志しながら看板業に就く。1961年に上京し漫画家としてスタートを切る。当初は原爆被害者に対する偏見差別から自らの被爆体験を公にすることはなかったが、1967年の母親の死をきっかけに、原爆や戦争をテーマとした作品を発表。『はだしのゲン』は、『少年ジャンプ』に73年から1年半にわたって連載され、子供たちから圧倒的な支持を受けた。広く海外でも注目され、核保有国18ヵ国のうち、17ヵ国で翻訳されている。
著書に『中沢啓治 平和マンガシリーズ』全17巻(汐文社)、『はだしのゲンはピカドンを忘れない』(岩波ブックレット)、『はだしのゲン 自伝』(教育史料出版会)など、多数。

 

「命が大事」これが一番なんです。
その次が人間としての尊厳。
動物も同じ。

命を傷つけるなんてもってのほか。
命を取るなんてもってのほか。

その思いが、次の段階に行くと“戦争はいかん”になる。

戦争は人の命の取り合いです。命を取れば褒められる。
戦争は絶対に駄目なんです。

坪井 直  つぼい すなお

大正14年(1925)生まれ。
旧制官立広島工業専門学校(現広島大学工学部)の学生だった20歳の時に被爆。
元教諭で、昭和61年(1986)に広島市立城南中学校長を退任後、被爆者運動に加わり国内外で被爆体験講話等を通じて核兵器廃絶と世界平和を訴えている。
日本原水爆被害者団体協議会 代表委員
広島原爆被害者団体協議会 理事長
広島平和文化センター 評議員
平成23年(2011)谷本清平和賞を受賞。

 

私たちはみな、真剣に「人間の命をどうしなければならないか」ということを考えなくてならないんです。

生きている人間なのですから、生きている人間の知恵を出し合って、どうしたら人間が安全で生きていけるかということを考えなければならない。

原子力は絶対に安全ではないということは、67年前に広島・長崎で証明されているわけですから。

谷口稜曄  たにぐち すみてる

昭和4年(1929)生まれ。16歳で本博多郵便局に勤務。集配中に路上で被爆し後、全身に大火傷をおったが、奇跡的に一命をとりとめる。国内外で被爆者の実態と核兵器廃絶を訴える。
長崎原爆被災者協議会会長。83歳。

 

とにかくあの沖縄戦のような戦争は、絶対に、二度とあってはならない、ということだけですね。

私の話を聞いた子供たちはあとから感想文を送ってくれます。
「本当の戦争というものを知らなかった。戦争ってこんなだったんだ」「よくわかりました」と。

そして「絶対に戦争に協力しません」という手紙をもらいます。
これがいちばんの救いですね。

山里和枝  やまざと かずえ

昭和1年(1926)沖縄県宜野湾市普天間に生まれる。戦前から沖縄県警察書記を務め、戦争が進むなかで沖縄県防空監視本部隊員を兼務。過酷な沖縄戦を生き抜き、戦後は沖縄民政府警察部に復職。現在は語り部として、戦争の実際を若者たちに伝えている。

 

私はそれ(片足失って)でも、国やアメリカを憎く思う気持ちはまったくありません。

なぜなら、恨んだってどうにもなりませんし、死んでしまった人がたくさんいるからです。

死んでしまえばおしまい。
弱音をはいたらおしまい。

生きていればこその今です。
死んだら駄目です。生きていなきゃね。

根本益伊  ねもと ますい

当時20歳 軽巡洋艦五十鈴乗組員
昭和18年12月 南洋の空爆で右足を失う
(取材時90歳)

 

私は肝に銘じていることがあります。
それは「自分の頭で考えろ」ということです。
自分の目で確かめ、耳で確かめ、自分の頭で考えて進めと。

というのは、私は何も知らない軍国少年でした。

日本に帰ると、戦争前後のことをむさぼり読みました。
日本はどうだったのか、なぜ満州国建設となったのか、様々なことを勉強しました。

木村 孝  きむら たかし

昭和3年(1928)、満州国蓋平生まれ
当時18歳
満州国航空機乗員養成所 機関学生
1946年11月 引揚船で日本に帰還
中国帰国者定着促進友の会 元事務局長

 

戦争をやれば結局両方やけくそになって、さらに摩擦が起きる。

国と国の軍隊が強くなれば強くなるだけ、戦争を起こしやすくなる。

だから今日本が非武装で戦争放棄をしていますが、そういうせっかくいい国になったのですから、これを崩してはならないと思います。

原田 要  はらだ かなめ

大正5年(1916)、長野生まれ。昭和8年、海軍に志願し、昭和12年操縦練習生を首席で卒業し海軍戦闘機パイロットとなる。支那事変からパールハーバー、ミッドウエー、ガダルカナル、そして終戦までの大半を零戦パイロットとして戦い抜いた。終戦後は職を転々としたあと幼稚園の経営を開始。平成22年(2010)に園長を退いたあとも、子供たちと触れ合うのを日課とし、また各地で戦争の悲惨さと、平和の大切さを語り継ぐ講演活動を続けている。2014年8月で98歳。最後の零戦パイロット。

 

国がいくら「やります」といっても、人が集まらなければ戦争はできない。

「いや、まてよ」とどこかでブレーキをかけることができれば、戦争は広がらないですむ。

やはり個々の、
「果たして、この戦争の正体はなんだろう」という思考力が必要です。

太田リセ  おおさわ まんじ

当時17歳(旧姓中嶋)
日本赤十字社従軍看護婦(当時)
(取材時85歳)

 

幸いトラック島は戦場にならなかったから私は助かりましたが、

餓死したり、食いすぎて死んだり……そうやってね、ばかばかしいような人間の死というのを積み上げていくのが戦争なんですよ。

そんなものを認めていいはずがないんだ。

金子兜太  かねこ とうた

俳人。現代俳句協会名誉会長。
大正8年(1919)、埼玉県小川町出身。旧制高校時代に俳句を始める。東京帝国大(現東京大)卒。1943年に海軍経理学校に入校。44年から終戦まで、海軍主計中尉、後大尉としてトラック島に赴任。戦後「社会性俳句」の旗手となり、56年に句集『少年』で現代俳句協会賞。62年、俳句雑誌『海程』を創刊、主宰。

 

庶民はね、みんないい人間なのよ。
だからロシア人が怖いなんて絶対に言わないでくれと言いたいの。

それとね、勝った国だって負けた国以上に死んでいるんです。
防御と攻撃じゃ、攻撃のほうがうんとやられる。

これは戦争に行った者じゃないと分からない。

木内信夫  きうち のぶお

大正12年(1923)、東京赤坂に生まれ育つ。
航空技能養成校卒業。満州で航空隊・飛行戦隊を経て、終戦後旧ソ連に抑留。昭和23年(1948)7月に復員後、絵を描き始める。
活動範囲はイラストに留まらず、劇団四季の歴史三部作『異国の丘』においては舞台衣装の時代考証を担当。その公演に際しては東京、名古屋、京都のそれぞれの四季劇場内で展示会が開催された。望月龍平シアターカンパニーの音楽劇『君よ 生きて』への協力。その他にも樋口一葉記念館での展示会、千葉県柏市や大阪府藤井寺市「平和展」など、数多くの展覧会を開催。
2015年10月10日、京都府舞鶴引揚記念館に寄贈した抑留イラストのうち40枚が、ユネスコ世界記憶遺産として登録された。ユネスコ世界記憶遺産としては日本初の生存作家となった。同年、11月3日に柏ユネスコ協会より感謝状が授与された。

 

今の日本の政治は危険な方向へ向かっているのではと思うのです。
「戦争の愚かなことを知れ!」と、声を大にして叫びたい気持ちですね。

私がソビエトで11年も置かれ、実際にたいへんな苦労をしたわけですが、それではなぜ帰国してソビエトとの友好運動をやったのか。

誰からも疑われました。
しかし、世界の平和は、相互理解から生まれるものなんです。

三村 節  みむら たかし

大正12年(1923) 茨城県城里町生まれ。
茨城県立水戸農学校卒業後、1941年、旧満州に渡り、農業振興が目的の国策会社である満州興農合作社に勤務。3年後、関東軍に入隊、陸軍予備士官学校第12期卒業。
敗戦後は、ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留され、3年目に反ソ連スパイ容疑で逮捕、25年の刑を受け、1956年に釈放されるまで11年間の抑留生活を強いられた。帰国後名誉回復される。
日本ユーラシア協会茨城県支部長・全国常任理事