季刊『道』 167号(2011年冬)
『道』167号 [詳細・購入ページ]
『道』167号は一気に読みきりました。全ての方のお話に“身体で感じること、学ぶことが全て”というメッセージが込められていたように感じました。
特にダフニーさんのお話には、同じ命あるものとしての“象たち”からたくさんのことを教わり、涙が止まりませんでした。「人間が生きるのに象の牙は必要ではない」私も同じように考え、毛皮や安易な動物実験などにも関心を持ち、自身の生活も見直しています。自然や動物から愛と調和を学び、地球の一部としての役割をはたしてゆきたいです。
宇城先生と小川三夫さんの対談で、教えることの弊害が語られていることにとても共感できました。親切に教えることが善であるかのような雰囲気が世の中に横行していますが、お二人が教えないことによって人の能力を伸ばすことが大切であると語られていることは逆説的なようではありますが、職場において後輩から具体的なノウハウを尋ねられた時に、具体的な回答を教えることにためらいを感じている私の実感と重なりました。教えられた通りにしないと評価されにくい現在の社会の中で、教えすぎずに主体的な気づきを待つことが、いかに大切であるかを改めて考えさせられました。
いつも楽しみに愛読させていただいております。
今回の宇城先生と宮大工棟梁 小川三夫さんの対談では、お二人の息の合った雰囲気が伝わってくるような対談でした。やはり、厳しい世界で頂点を見ている人達は、同じ感覚を持っているのだと思います。理屈や知識優先の現代の社会では、本物が育たない土壌となり、人間のエネルギーが無くなっている。これからを背負う日本人は、一人の人間として実力をつけ個人として強くならなくてはならないというメッセージが込められていたように感じました。
「野生象がくれた人間へのメッセージ」では、人間がまさに大きな勘違いをしていることを再確認させていただきました。人間は象牙のために像を殺し、自分の欲のためだけに自然界を破壊しています。人間も自然界の一部であるということを謙虚に受け止めないと、人類は本当に滅びるのかもしれないと思います。すでに、人間は自然界の調和の中にいない状態である事実を理解し、自然に対して共存共栄し、生かされているという謙虚な気持ちと自然に対して、もっと気を使わなければならないことが本当に解りました。象という動物を通してこのような地球上の自然の営みの変化や矛盾を感じとり、また、修復のために活動されている人達がいることに頭の下がる思いがします。地球上で人間の犯した過ちを少しでも修正できるような活動に対して力になれればと思いました。
特集「身体で学ぶ」は、まさにタイトル通り身体で学ぶということを一貫して教えてくれる内容でした。小川棟梁、名嘉睦稔さん、ダフニーさん、そして宇城先生の連載「気づく、気づかせる」・・・ それぞれの先生方の話のなかに終始一貫して「身体で学ぶことの大切さ」、「心の力、愛の力」の大切さが説かれており、気づいたら最初の対談から最後まで読み通していました。
特に、小川棟梁と宇城先生との対談のリズムの良さ、両先生の話が噛み合ってゆく心地よさ、さらには赤字で引用される小川棟梁の言葉が本当に正鵠を射抜くように、自分の至らなさを照らしだしてくれました。この記事が今のタイミングで掲載されていることにも感謝の念を抱きました。また名嘉先生が語る五感の話、バッタがヒヨドリに食われる話、てんかんの犬の話、ダフニーさんの「愛が子象を育てる」というも話も、頭だけで考えた偏差値教育的な頭脳には響かない、心・身体に沁みてくる話でした。毎号毎号、気付かされます。様々な情報が氾濫する中で、この本にしかないオンリーワンの光を発信し続ける『道』に心からの声援を送ります。
宮大工の小川棟梁の言葉は、宇城先生の言葉とまったく同じで、職業、生活のなかで実践させているのがよくわかった。頭や知識でなく、身体で考える。心を燃やして身体のエネルギーを高めれば、周りの人だけでなく、物にも生命が持っているように影響、調和できる。やはり心と愛だなあと感じさせられた。また、自分の心によって、自分の力を高めなければいけないことを学んだ。
今の元気の無い日本、夢や希望を持てない子どもたちをどうしたらいいか、宇城先生は、その答えが小川棟梁のご著書『棟梁』に全て書かれていると言われました。知識や頭脳優先で行動の伴わない今の人達が忘れてしまった、生き方や価値観をお二人が私達に思い起こさせてくれました。
師から学び、師のすごさ、偉大さ、そして尊敬する心から「自分もやってみたい。やってみる」という気持ちが自然にわいてくる。小川棟梁はまずその気持ちが大切だと言われました。
そして「やれるかどうか」なんて考えずに「どうやったらできるか」を考え、やりながら次を見直していく姿勢。「器用な人は器用に溺れる。不器用の一心に勝る名人はいない」という励ましと教え。集団生活・徒弟生活の中で、「寝ても覚めても、そのことしか考えない時間をつくる事。理屈はいらない、邪魔なだけ」という修行に対する心の姿勢を示していただきました。
そしてそのような修行を経た時、「自分でものにした技術なら、それ以上のことに立ち向かっていける」という可能性を持つ事が出来、数百年後の人達に感動を与える様な大きな仕事に繋がっていくという、無限の可能性とすばらしさを教わりました。
まさにそういう文化や生き方を取り戻す事が、今の日本の打開策になると思います。先ず自分達大人が頭や理屈でなく、体や感覚が先だという所に変えていく事が大切だと思いました。
母親の象が殺された場所に立ちすくむ小象の姿や、シェルドリックさんやキーパーに甘えたりミルクを飲んでいるいたいけな小象達の写真に、いたたまれない気持ちになりました。人間の罪深さを改めて痛感しました。そして小象も人間の子供も本当に一緒なのだと思います。目の前で母親を殺された心の傷は、一生消せるものではないし、ひと時も離れずにずっと包み込んでくれる愛情こそが何よりも必要であって、それ無しでは生きていけない。逆にその様な愛情を受けると一生忘れる事は無いという愛の大切さを教わりました。
自然の中で動物も人間もともに生かされている存在であって、ともに愛情をもってお互いを尊重し、生かされている事への感謝を忘れてはいけないという事を改めて感じました。
今でも新聞広告などで象牙の印鑑などを重宝がっている記事を見ると本当に腹立たしくなります。そのような自分勝手な欲が大きな悲劇に繋がっていくという事を自分の子供達にも伝えていこうと思います。
小川棟梁と宇城先生の対談で、「身体先にありき」「物を教えないという教育」という言葉がありました。自身が子ども、あるいは人に関わっていく中で、自身が身につけなければならず、そして体で伝えていけるようになるために、まずは自分自身が体に記憶させる、体で考えるべく、変化し、謙虚にならなければと思いました。
また、ダフニーシェルドリックさんの象との関わりでは、愛があるからこそのダフニーさんの献身的な象との関わりに心を打たれると同時に、人間が引き起こしている象社会への破壊的かかわりについて悲しくなり、自身も考えて行動しなければと思いました。
宇城先生の先生の「気づく、気づかせる」は、毎回、はっとさせられるのですが、今回も「小さな子の持つ主観的時間の中で発揮できる力がなくなる理由は、家庭も含めて身体を軽視してきた知識偏重の教育環境にある」との内容に、わが家庭をふりかえり、その通りだと思いました。今は、こうして気づくことができたことに感謝しながら、少しずつ道塾で学んだことを、子どもに身体で伝えていきたいと、遅まきながら再度思いました。
宮大工棟梁 小川三夫氏と宇城先生との対談を興味深く拝読しました。師の西岡常一棟梁の鉋屑を窓に貼り、それを目標にただひたすらに刃物研ぎを続けた小川氏。頭で考え小手先の技術を身につけるのでなく、身体で覚え込んでいく。素直な心で師の技、心を映し、自分から工夫努力を重ねる。そうでなければ歴史に残るものや人を感動させる本物は作れないのだと思いました。芸術に携わり、また教えている私にとって身がひきしまる思いでした。言葉や写真から凛として清澄な空気が流れ出してくるような、檜の香りが漂ってくるような気がして清々しい気持ちになりました。
小川三夫さんと宇城先生の対談記事は、厳しい修行を経て、常に言い訳のきかない厳しい日常を過ごしてこられたお二人の気迫が伝わってきました。お二人とも、知識やハウ・ツーではなく、行動を起こす根本であるエネルギーの大きさを重要視されており、弟子や周囲の方々に対してもたくさんの希望、元気を与えておられることがわかります。
また、小川三夫さんの『ものを美しく作ることを目的にするのでなく、まず自分の使いやすい道具を作ること』いうお話から、会社員である私にとっての道具作りはなにかと考えたときに、仕事の根幹である顧客や周囲からの信用を得るための真心を磨くことではないかと気づかせていただきました。師匠の心を自分に映し、心作りに精進していきたいと強く思います。
宮大工棟梁の小川三夫さんの話の中に「力のあるやつは黙って重いほうをすっと持ちます、自分で」というところがあります。大抵の人は、持っている情報を自分が楽をするように利用し、重くて苦しんでいる人を口先で叱咤するでしょう。鵤工舎では、宮大工としての技術を身につける前に「心豊かな人間」になる修行をしていると思いました。それが、道具を心をこめて労わり、道具が身体と一体化することで、向こうが透けて見える鉋屑や、水を弾く丸柱を作り出せるのでしょう。
手先の技術ではなく、身体で覚えた緻密な技と木の特性を知りぬいた伝統の工法で建てられたからこそ、この高温多湿な日本で世界最古の木造建築・法隆寺が1400年を超えて現存しているのだと思います。まさに宇城先生が常々言われている「人間は生まれながらに完成形」、「身体で気付く」と同じだと気付きました。
いつもながら宇城師範の凄さ、理論も超一流であることに感動しました。
今号の『道』での宇城師範と宮大工の小川様との対談に感化され、棟梁など師匠である西岡常一様のことが書かれた本を数冊読みました。サンチンから先人達の英知を読み取る宇城師範、法隆寺から飛鳥人の考えを読み取る西岡氏、実戦も理論も超一流の宇城師範、職人の技術も講演活動なども凄い西岡氏、今号の『道』で本当の文武両道の意味を知りました。
毎号楽しみにしております。いつも良縁をご紹介いただき、本当に有難うございます。
教職という仕事に就いているため、学ぶということについての小川氏のお考えに興味がありました。なかでも小学校6年生を相手にされた経験のなかで「小学生を相手にするということは、知識とかそういうことではなしに、「伝えようとするエネルギー」ですよね。まずはこれがなくちゃ駄目だ」と仰っていました。知識優先になりがちな学校教育だけれども、まさに今の教育現場に必要な一言だと感じます。教員自体に発するだけのエネルギーがなければ、伝えたいことが伝わらないと思います。
子どもたちが「やってみたい」と感じるような教育、今の私にはまだまだ手段は見つからないです。小川氏のようにものづくりの仕事ではないにせよ、今の自分に与えられた仕事に精一杯取り組み続けることで、子どもたちに伝わるものもあるだろうし次の世代に生き方を伝えていこうとする人づくりができるような気がします。自分にできることは子どもたちの前で嘘のない仕事を見せていくことだと思いました。
小川氏も「まずは子供からつくらなければ駄目だな。今の子供に夢がないもんな。目標をもたないとね」と仰っています。まずは自分自身が嘘のない仕事のできる大人となり、夢を持てる日本にしていけたらと思います。再度、この対談記事を読んで自分の心に刻んでおこうと感じました。
『道』を毎号食い入るように読ませていただいております。小川棟梁のお話は、宇城先生の教えとの輪唱を聞いているかのように心に響きました。続けて何度も読み返してしまいました。
また、版画家の名嘉先生の会見では内なる叡智について明確に述べておられます。人はバッタと同値であるとも言い切っておられました。山登りをする私も山中で自然の叡智を実感し、自分とアリに何の差異も無いことを感じます。自分の中のぼんやりとしていた信念が、会見を読ませていただくことで明確な信念となって腑に落ちました。
ダフニーさんの記事では象の生き様、人間の愚かさを想い涙が出ました。象の中にある叡智が人間にもあると信じています。ガイアシンフォニーを1人でも多くの人に見ていただければ、と思いました。
宮大工 小川三夫棟梁の言葉が1つ1つ書き留めておかなければならない言葉のように感じました。
また『道』に登場されている方は、全て共通して和の心。
日本人の心を持っていらっしゃる方だと感じます。
そして同時に、そういった日本人の心が失われていっていることを感じます。
この『道』に掲載されている日本の心を残すために、私も貢献できるような人間になりたいと思います。
『道』167号が届き、一気に読み切りました。今回の道では、身体脳を使えるようになるためには、言葉すら邪魔になるのだいう事に気付き、衝撃を受けました。言葉はとても大事な物ですが、それを得たことで失った物もとても大きいのだと感じました。日本人が言葉を大事にするのと同様、言葉でなく空気を読むことを大事にしてきたこともそのためかと納得しました。言葉でない理解を目指して努力していきます。
「人間は完成形であり、調和こそがわれわれに必要なものであり、そのためには頭で学んだ知識は何の役にも立たない」と宇城先生は言われます。そして、まったく同じことを小川棟梁が言われています。
『道』の中では名嘉睦稔さんが「人は言葉にしないと気がすまない癖」という表現で、また、シェルドリックさんは、象と心を通わせるという事実によって示してくれています。
全てに共通していることは、まさしく身体を通じて得た「知」だと思います。それは「頭に知識を要領よく詰め込んでよい点数をとる」教育の対極にあるものであり、その大切さをみなさん違った分野から、しかし、同じことを伝えてくれている内容だと感じました。
小川三夫先生の記事から、「教える」ということについて考えさせられました。
今の子どもたちが興味をもつものをさがし、子どもたちを楽しませる工夫を日々し続けて授業を行なうことが本当に子どもたちのためになっているのか、考えなくてはならないと改めて思いました。
学校は楽しい所ではなく、学び成長する所であると感じさせられる教師にならなくては・・・ と自己練磨の必要性を痛感しています。
木暮先生連載の「うつくし日本」での大和魂の抜けた最近の日本の外交問題には全く同感です。
悪いことは悪いと毅然とした大和魂、相手の立場から考えることができる思いやり精神の大和魂はどこにいってしまったのでしょうか?
吉田松陰の言葉が身にしみてきます。
「かくすれば かくなりと知りつつも 止むに止まれぬ 大和魂」
私が一番印象深かったのは、ダフニーシェルドリック氏の「自然のままに平和に生きる」です。
象がもつ愛の深さ、優しさ、いつも象と一緒に暮らしている氏だからこそ解るのだろうな、
と思いました。
その象を我々人間は、主に牙の為に殺戮している事実。
未だに密猟が起きていることにショックを受けました。
このようなことを知ってしまったからには、象牙製品は、決して購入しないようにし、
象がもつ優しさを少しでも持って行動していきたいと思いました。