■ 読者の声


 

宇城空手の真髄と継承(二)

― 人間の可能性と進化 ―

 

宇城憲治/榎本麻子/宇城拓治 著

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師と仲間たちとの絆を強くし、その輪を広げ、この世界を包んでいくこと、空気を変えていくことが次元を変えた戦い方なのだと思いました
福島 公務員 50代 男性

深い深い深淵に入っていくような、本当に凄い一冊でした。

読み終えて、榎本師範の会見にあった水中から上がって来た感覚のように身体がとても重く感じました。

一体何が大切なのか?
師とは?
覚悟とは?
変化とは?
人の存在する意味とは?
本当に様々なことを深く考えさせられました。

しかし、考えても、考えても全く答えが出ません。

思考上に浮かぶ答えは哲学や宗教、スピリチュアル的なものばかりで、それらが己を慰める甘い言い訳の言葉でしかなく、己の成長や実社会に対する実効性が全くないことは、宇城空手の末席を汚す修行の浅い私でもわかります。

頭では答えが出ない。

身体を通して真理を体験させるという高次元の師の指導に触れ、細胞(心)で感じ気付くしかない、頭の思考から身体の思考にシフトしていかなければならないのだと思います。

では、具体的にどうシフトしていくべきなのか?
その「答え」も全てこの本の中にありました。

この本に書かれている榎本師範と拓治師範の過去と現在の時間、師への思い、宇城空手を修める覚悟を今の私たちに映すことで、漠然としていた私たちの真剣さのなさ、甘さ、社会に対する生産性の低さを可視化し、宇城先生と両師範の生き様に一歩でも近づけるよう、人々全体の幸せという師の思いを実現できるよう、我々ひとりひとりが日常において実践に実践を重ね、変化成長することなのだと思います。

そして、師と仲間たちとの絆を強くし、その輪を広げ、この世界を包んでいくこと、空気を変えていくことが次元を変えた戦い方なのだと思いました。

本当に素晴らしい一冊でした。大きなエネルギーをいただきました。塾生の方のインタビューで出てきた「エネルゲイア」のように、人としてあるべき正しい姿に変化運動している状態を切らさず維持できるように修行いたします。

子供達に対して大人が、人間性、人間力ある生き方を見せることが一番の教育
福島 団体職員 50代 男性

宇城空手の真髄と継承(二)を読ませていただきました。書かれている言葉一つ一つに重さを感じました。読んでいて胸が熱くなり、本を持つ手のひらや足の裏に汗をかきました。

頭ではなく、心、体に先生、両師範の教え、気づき、エネルギーが伝わっているのだと読んでいてとても嬉しくなりました。ありがとうございます。

はじめに、人間性と人間力について宇城先生のお言葉があり、宇城空手がその核心へ導くものであることが書かれてあり、改めて私たちが学んでいる道の尊さを感じました。

そして第一章からは宇城先生、榎本師範、拓治師範の具体的で深いお話が怒涛のように続き、最後まで一部の隙もなく、全ての言葉が胸に突き刺さるようでした。先生、両師範からは自らを振り返らずにはいられないような厳しいお言葉もありますが、その裏には愛情に溢れ、宇城空手を学んでいるからには、自分を捨て、前に向いて進もうという希望溢れるものであると感じました。

できなければ意味がない。ただ、そのためには自らを捨てることを先生と両師範からは教えていただいたのかと思います。もっと深く、ひたすらに師を追求し、自分自身を深く掘り下げ、自分を捨てるということが人間性、人間力も高めるということを両師範が実践されていることは、塾生にとって何よりも希望です。

子供達に対して大人が、人間性、人間力ある生き方を見せることが一番の教育であり、宇城空手、宇城先生の考えを広めていくことが、自分と家族の幸せ、その先にある社会の変化に繋がる確実な道であることを心に深く感じました。

第五章人間の可能性 無から有を生む に、「無から有を生む」は未知の世界の扉を開くとのお言葉が書かれてあります。AIが急激に発達する時代の入り口に、無から有を生むという人間の可能性、素晴らしさについて明確に書かれた本として、未来にこの真髄と継承が語り継がれるのかと思います。

そのような本を読ませていただき、更に先生の気を体験させていただいている幸せを感じました。

本当にこの本は生きている、生きるというエネルギーが入っていると感じました
静岡 農業 40代 男性

宇城空手の真髄と継承(ニ)が手元に届き、少し読み始めたら一気に最後まで読んでしまいました。今回は榎本師範や拓治師範の談話があるということで、その部分から自分が何を学ぶことができるのか、何を感じるのか、非常に楽しみにしておりました。

お話の中でズレの話がありました。長期間過ぎた時のズレは遅過ぎる、1度のズレに今気づくこと、0.1度のズレはもっと大事だとあり、そのきめ細かさの度合いが深さへの気づきとなる。これは学ぶ際の姿勢、心もそうだし、まさに型で身体もそうあらねばならないと思いました。そのような世界だからこそ、全て観えていて、直し方も全て分かる、直したらそのように出来るようになる。まさにスポーツなどは何も分かっていない、レベルの浅い世界だと分かります。だから勝つか負けるかでゲームとなるのだと思います。武術は生き死にであるからゲームでは駄目だという事が、今までよりも深く感じられたように思います。

拓治師範のお話では、先生は車の運転時でも腕受け、テレビを見ていても宇城式体操と、まさにご家族故のお話もあり、まさに24時間、妥協無しの生き様を感じさせて頂き、何かこちらにもエネルギーを頂きました。先生の生き様が拓治師範のお言葉を通して感じられたように思います。

榎本師範のお言葉では「私たちはこれまでどうでもいいことを競争させられてきている。だから勝ち負けのほうに目線がいってしまう。」というものがあり、まさにだと思いました。スポーツで優勝すれば良い人生を送れるのか、受験で受かれば良い人生を送れるのか、現状はそこに費やした時間やエネルギー、経済的なもの、様々なリソースを賭けても、本当に幸せな人生を送れているとは全く限らないと思います。割合からいっても、むしろ幸せになった人間の方が少ないのではないかと思います。拓治師範が「先生の教えがなければ、何が正しくて何が間違っているかの判断も出来なかった」とありますが、これもまさにだと思います。むしろこれで世の中が良くなる訳がないと思いました。スポーツや偏差値も経済的な事や地位名声で誤魔化していますが、その実、必ずしも幸せに向かっているとは言えず、字の如く、誤って魔と化しています。

麻那さん、創太君のお話でも、周りと衝突せずに人の輪が広がっている、無意識でゼロ、調和のエネルギーがある、これもまさに身に宇城空手の本質を宿しているという事であり、このお二人の生き様からも学び、感じ取らなくてはならない事が沢山あると感じました。

また榎本師範のお話の中で「自分に矢印を向ける」「自分で気づく」という御言葉がありました。身体は出来る、しかし頭が邪魔しており、それを自分で感じ、直さなければ一生直らない。身体は分かっている、では何が邪魔をしているのか、それは自分の頭であり、だからその自分の意識内にいる自分を捨てる、という事が大事なのだと思います。自分の意識内の自分、それは我であり、それを捨てる事が出来た時に身体が目覚めてくるのではと思います。

麻耶さん、創太君の日常で全体を観ている、自然と捉えている、その事を分かる榎本師範、そのお話だけでもとんでもないレベルの事なのだと思いますが、そこから更に、組手を通し成長、そして導かれようとしておられる榎本師範、その環境下で育つ麻耶さん、創太君に希望の光を感じました。

スキューバダイビングでの榎本師範の一瞬にして身体が変化する体験、覚悟と重力に対しての変化は、宇城空手を修行されているからこその気づきであり、それもまた日常が修行そのものと師範はなられているからだと思います。日常の全てが何かしら宇城空手の修行となっている、なってしまう、その位日常と一つとならなければならないのだと思います。

また宇城空手の世界は「ブラックホールに吸い込まれる覚悟の要る世界」と言われています。その位の覚悟がいりますが、その先に進み続ければ、ホワイトホールから別次元の世界へと行く事が出来るのだと思います。

榎本師範、拓治師範の率直なお人柄から発せられる言葉は本当に生きていて、読んでいるだけで、その感情や何を感じられているのかが感じられて、本当にこの本は生きている、生きるというエネルギーが入っていると感じました。そのお二人は当然、先生よりも自分達と年代も近く、まただからこそ感じる部分も近いものがあり、その両師範の言葉に宿るエネルギーを感じ、自分も精進していかなければならないと思いました。

それも頭でそのように思うのではなく、自然とそのようなエネルギーが湧いてくるように感じました。宇城空手の世界のような、存在としての自分が変化する事ができる世界など他には無いと思います。それをまさに実証されている先生、榎本師範、拓治師範、麻耶さん、創太君の存在。まさに先生から三代に渡る実証が成されていると感じます。

江戸時代の将軍家指南役であった柳生新陰流でも途中で絶えており、このような世界は日本史上においても、世界史上においても恐らくは無いと思います。

そのような次元にある宇城空手の世界に対し、自分という我、フィルターを通して見ようとする事が如何に愚かである事かと思います。頭で感じる自分、それを全て捨て去ってこそ、身体が生きてくる。それを理解するには自分がその世界へと行く事でしか出来ません。先生、そして榎本師範、拓治師範が人生を懸けて我々に見せて下さっている世界、境地に一刻も早く自分達も行き、その世界、その輪を、仲間を増やしていかなければならないと思いました。そうならなければ、今の世界では子供たちを守る事は出来ない。そのように思います。

これからも何度も、何度も読み直し、自分の中にこの本に込められたエネルギーを取り込み、気づき、成長していきたいと思います。

本当に、貴重で、素晴らしい著書を残して下さり、誠にありがとうございました。

自分の努力不足で宇城先生のお話にピンとこない事も、榎本師範、拓治師範が間に入って話される事でピンとくる事ができました
福島 会社員 40代 男性

一気に読ませて頂きましたが、途中で本を閉じたくなるような身につまされる内容ばかりでした。満足する → エネルギーが無くなり自滅への道。自分と向き合っていると自分で思っていても、その中身は結局、自分とその他を相対的に見ていただけ。感想文を書くときも、今、人に読まれた時に良く見られる言葉を選んでる。などなど、私に自分はあるのかと不安になってしまいました。

ただ、希望があるとすれば、宇城先生と繋がっていれる事だと思います。道塾に参加させて頂いて、長くなりますが、自分の努力不足で宇城先生のお話にピンとこない事も、榎本師範、拓治師範が間に入って話される事でピンとくる事ができました。

自分自身が、この地球の一部である事を改めて感じます。日本で起こる問題も、世界で起こる問題も、自分に無関係ではなく、自分の問題である。と強く思います。繰り返し、読みたいと思います。素晴らしい内容でした。ありがとうございます。

宇城先生に学ぶ者が、自分に矢を向けた時、そこに大きなエネルギーが湧くことを、塾生は実証で知っています
山形 教員 60代 男性

『宇城空手の神髄と継承(二)~人間の可能性と進化~』読ませていただきました。前著『宇城空手の神髄と継承(一)』からさらに進化・深化された麻子師範と拓治師範の様子がとても鮮明に伝わってきました。お二人とも自分をさらけ出して自らの変化の様子を率直に語られていました。

父であり師である宇城先生との関係は、他の塾生には決して味わうことの出来ない独特の「真剣さ」が求められるものだったと思います。しかし、父である宇城先生によって決して強制されることなく、自分から動く、自分から学ぶ、自分から稽古する、自分の身体そのものが変化・成長を求める、そんな自立的な育ちの中でなければ、決して到達できない高みに、お二人は達しているのだと感じました。

師の背中を必死に追いかけることには、計り知れないしんどさがあったかと思いますが、「空手が楽しい」と感じる身体がそれを乗り越えさせたんのだと気づかされました。それは道塾でしか学んでおらない私などが、到底想像することの出来ないしんどさだったかと思いますが、そこから逃げずに、稽古に精進してきたからこそ、今のお二人があるのだと思いました。

今回、特に多くのことを気づかされたのは、教育(子育て)について麻子師範がお話しされている内容です。麻子師範の子育て(教育)に対する言葉はどれをとっても、今の学校現場に最も欠けているものをズバリ言い当てています。

『たかだか20年で、いえ、たったの10年で、いや、小学生というたった一桁の人生の時間で元気がなくなるなんて、この国の親を始めとする大人の姿が反映された結果としか考えられません。』(P100)
『なぜできないのに言葉で人を引き付けたり、引っ張ろうとするのか。焦っているからです。なぜ焦るか、外に矢を向けているからです。自分に矢印を向け、自分を磨く努力をしていないからです。一生懸命の世界での努力は、自分都合の努力であり、次元を超えた世界に出会っていない枠での話です。…大人は「自分を省く」が身についてしまっています。』(P101)
『実力は実る力です。実る力は頭ではつきません。欲のある心でもつきません。気づいたらついているのが実力です。だから、真に実力のある人は偉そうにしませんし、教えようともしません。やって見せ、その姿で周りの、とくにまっさらな子どもたちの心に希望のエネルギーを湧かせます。「こんな大人になりたい!」そういう大人がいないから、子どもに元気がないのです。』

これらの言葉は、日本の教育の病原を明らかにしています。しかし、麻子師範は、同時に、希望を明示してくれています。

『子どもたちにとって一番大切なものは安心感です。安心感の中で子どもはすくすくと育つのです。なぜなら私自身もそうだからです。宇城先生は絶対的な姿勢で絶対的な世界を見せてくれています。私は心身ともに安心感で満ち溢れ、やる気になっていきました。先生のエネルギーの世界で、自分の情けなさ、弱さ、小ささ、雑さと真剣に向き合うからこそ自分で気づく、そして誰でもない自分に突き付けられたその現実の苦しさから脱却するための自分磨きを、先生はひたすら稽古で引っ張り、導いてくれました。』

宇城先生に学ぶ者が、自分に矢を向けた時、そこに大きなエネルギーが湧くことを、塾生は実証で知っています。身体がまさにそのエネルギーをキャッチしています。その事実が希望を与えてくれます。

40年弱、教育現場に身を置いてきましたが、日本の教育(特に教員)はどんどん劣化するばかりです。自分に矢が向かない、自分に矢を向けない教員が多すぎます。教員対象の研修会を開くと、生徒に対して強い口調で「指導」をする教員が、部屋の後ろに陣取って私語をします。彼らは、もし、自分の授業で教室の後ろに生徒が固まって、前の方をがら空きにしたら「お前ら何やってんだ、ちゃんと前に座れ!」と怒鳴るに違いないのですが…。そして、「講師に対して失礼だな」と感じることなく、多くの教員は前の方をガラ空きにしたまま着席します。自分自身が主催した研修会でなければ、「前に座って真剣に話を聞いて学ぼう」とならないのです。

しかし、今の学校現場で、こういったことをはっきり指摘する教員は、管理職であっても簡単に職場で無視されます。実際に「教員改革」を行おうとしたらとても強い抵抗を浴びます。いくら口で「教師としてのあるべき姿」を語っても、「自分に矢が向いていない教員」にとっては、“豚に真珠”です。しかし、そういう教員の言葉って、実は、生徒によって簡単にスルーされています。その意味で生徒たちはまだ健康です。逆に、自分に矢を向けつつ、生徒たちの抱える痛みやしんどさに寄り添う振る舞いや言葉には、彼らはとても敏感で、ちゃんとした反応が返ってきます。廊下ですれ違った時には彼らから言葉をかけてくれます。「先生、また来てね」たまたま、教員の出張で授業の自習が出て、それなら自分に授業させてくれって言って、飛び込みで授業したときなど特に顕著です。ちょっと道徳に近い内容で一緒に考えようと問題を提起しての授業なのですが、驚くほど素直に反応してくれる生徒が多かったです。

長く高校生と付き合ってきて、「高校生はもはや修正不可じゃないか」と思うことも多かったのですが、実際はそんなことはありません。教員のかかわり方次第では大きく変化・成長し、真心のある優しい人間に育っていきます。それに比して、先生方を変えようとする努力は「無駄足」になりがちです。ですから、「自分が変わることによって生徒に変化が生じる。その変化を先生方に分かってもらって一緒に変わっていこう」としたら、一部の教員(特に若手)は一緒にその変化を楽しんでくれましたが、中堅以上クラスからは、妬みや嫉妬、そして嫌がらせや無視をいただきました。そういう教員の中にあるのは「自信のなさからくる怯え」だと思います。自分をとことん磨く努力をしないから、結局はそうなるのだと思います。ほんまにしょうもない状況が日本全国あちらこちらの教育現場で生じています。教員の劣化が本当に著しいです。

しかし、宇城空手を学ぶ者、宇城道塾で先生から教えをいただく者にとっては、他の人には構っておられず(案外、どうでもよく)、一番大事なのは「自分が宇城先生をちゃんと映せているのか」「自分がどう変われるか」「自分に矢を向けて、宇城先生からいただいた気づきをどう日常に活かしきるか」です。先生が歩まれた「技術開発」のとても厳しい道のりと、座波先生・川崎先生のお二人に、弟子としてこれ以上ない誠意を尽くして師事した姿は、自分にはあまりにもまぶしすぎますが、その宇城先生を父として持ち、師として学んでこられた麻子師範、拓治師範の現在の生き方・考え方が、暗闇の中の燈心のように自分の歩むべき道を照らしだしてくれているように感じています。

長々と書いてしまいましたが、この度のご著書には、大きな希望と勇気、そして、もっともっと変わりたいというエネルギーを与えていただきました。
心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

本に触れると、手に繊細なエネルギーを感じ、大切にしたくなります
千葉 会社員 50代 女性

読んでいるとエネルギーが湧き、優しい気持ちになります。
また、文章から柔らかい空気を感じ、引っ掛かりがなく、スムーズに読めます。
本に触れると、手に繊細なエネルギーを感じ、大切にしたくなります。

一巻二巻を通して読み触れることで、宇城空手を学ぶことができます。
大切にします。ありがとうございます。