2020年 仙台 第3回(2020.7.26)

自分の中でさらに新たな不思議の世界が広がりました

宮城 会社員 63歳 男性 HK

今回の道塾では、自分の中でさらに新たな不思議の世界が広がりました。先生の御著書と別な著者の本を使った実技。四つん這いになった一人を3人がかりで足と手を引っ張ります。そのとき四つん這いの人の背中に本を乗せます。この乗せた本によって、引っ張られる力に対する身体の抵抗力が変わります。

先生の本ではしっかり耐える強さが生じますが、別著者の本では引っ張られる力によって手足が伸びてしまい、ずるずると床に這いつくばることになります。本は背中に置かれるので四つん這いになっている人には見えません。でも確実に本によって強さは変わっています。それはあたかも背中を通してどのような本であるかを判別しているかのように。もとより本自体はあくまで紙の上にインクが乗っている無機的な物質に過ぎません。それにもかかわらず人は読むという行為ではなく身体そのものでそこに何かを感じて変化する力を持っているということをこの実技は示します。何かを身体に感じさせる本があること、人間が本を通してその何かを感じられること。その何か、がやはり気であると。

本は物質であるとともに中身、内容(情報とも言い換えられそうです)を持っています。従って本を通して気を感じることができるという今回の実技は、さらなる気の世界の不思議が見えてきます。人間の心、精神から創出された情報自体に気が宿る仕組みがあるということだろうか?その仕組みは情報のレベル/質を気に反映させるのだろうか?今の科学でそのような仕組みを捉えることはできるのだろうか?・・などと懲りずに頭で考えようとする自分がいます。

現在はまだその仕組みそのものは確かには紐解けていないこと、それにもかかわらず自分が体感する事実は間違いなくあること、というギャップ(ある意味“ワクワク”するような不思議のギャップ)の存在が自分をしてそう考えさせてしまうのかもしれません。

先生はマジックを引き合いに出されました。マジックは演技で「種も仕掛けもありません」と口上しますが実際は「種も仕掛けも」必ずあります。あることは分かってはいても、その見かけの不思議さと、種や仕掛けが見ている人にはわからないことの落差に面白さを感じます。私もその一人です。

気の世界は少なくとも現時点では頭の知識で説明できるような「種も仕掛けも」ありません。でも身体は変化を実現出来ます。出来るという言い訳のない事実そのものが、仕組みの中に在る「種も仕掛けも」を確実に身体が知っていることを示しているのだと思います。
道塾後帰宅した自宅で先生の御著書も含めいろいろな本を用いて改めて検証をしてみました。実技の時と同じように力の出る本とそうでない本があることが体験できました。そして様々な検証の試みの中で、先生の御著書が最も力が出ることも身体で感じました。

このようにいつでもどこでも検証できる気の世界は、実証性、再現性、普遍性の見える形としての事実を基としています。そしてその事実は、さらに基の深い奥にある真実、真理へ向かうための出発点であるように思えます。

出発点に立って不思議の世界の“ワクワク”を感じながらも、その先に向かって日々自分は動いているか、横着しがちな思考行動に陥っていないか、そんな反省の視点を忘れず、まだまだ続くコロナ禍の日常を気と共に過ごしていかなければと思いました。
今回もご指導ありがとうございました。

自然を大事にする謙虚な人間を豊かにする世の中

秋田 教員 51歳 男性 TI

今回の道塾で、最も心に残ったことばが、「経済とは金儲けではなく、人を豊かに
すること」ということばです。経済の語源となった経国済民または経世済民(世を治め民の苦しみを救うこと)の意味を考えると、経済の本来の意味は、民の苦しみを救い、人々を豊かにすることに目的があるはずで、金儲け自体が目的だったり、一部の人のみを豊かにし、多くの民が困窮する経済は、本来の意味での経済とはいえないと思います。

宇城先生のご本と他の作者のご本に手を置いて1対3の腕相撲をする検証がありました。本がなくても1人の方の腕を3人で押さえつけられると、それを返すことは容易ではありません。仏教学者の書かれたご本に手を置いてトライしてみても、動かすことは出来ません。宇城先生の本に1人の側が手を置いてやってみると、力が湧いて3人で押さえられている腕を動かすことが出来ました。

また、帯を締めた人を3人で持ち上げる検証では、帯を締めた人が何も持っていない状態では、持ち上げることが出来ました。他の作者の本を帯を締めた人が持ったときは、より軽々と持ち上がりました。宇城先生の本を帯を締めた人が持ったときは、地に足がついたように重く持ち上げることが出来ませんでした。

物にもエネルギーのある物とない物があると思いました。写真家の野村さんと宇城先生の対談で、パフォーマンス的な写真とエネルギーのある写真、事実の写真と真実・真理の写真というお話をされていましたが、写真や絵などの芸術作品、本やことば、食べ物などにもエネルギーのある物とないもの(エネルギーが少ない物や負のエネルギーになっているものという言い方が正確かもしれません)があり、エネルギーのある物に触れられれば、健康であったり、幸せに生きられると思いました。

また、印象的だったのが、先生がホワイトボードに銀河系の図を描かれ太陽系の位置を示されました。銀河は渦をなしています。台風も渦をなしていますが、宇城先生が集団を動かす際のエネルギーの方向というか動きが、左右に蛇行する場合もありますが、この渦の形を示す場合があり、相似形だと思いました。気は自然の姿、宇宙の姿を示してくれているように感じました。

宇城先生は季刊『道』での野村さんとの対談で、「自然を大事にする謙虚な心と同時に、そういう謙虚な人間が幸せにならなければいかん」ということをおっしゃっていました。このことばにとても感銘を受けました。自然を大事にする謙虚な人間を豊かにする世の中を創っていかなければならないと思います。

今回の道塾も多くのことを学び気づかせていただきました。道塾の仲間と会うと勇気づけられエネルギーをいただきます。道塾の仲間からは「他尊自信」を感じます。私もエネルギーを与えられるような人間になりたいと思います。