2024年 名古屋 第1回(2024.1.25)

最初の道塾から、とても素晴らしく、また計り知れない次元、可能性を感じさせて頂きました

静岡 農業 43歳 男性 YF

御講義では開始時間よりもかなり早い時間からiPadを使ってのお話をして頂き、通常の時間よりも多くの時間、学びを頂く事が出来ました。

コーランを歌う子供の歌声に涙する大人達、そしてスポーツ空手で相手を叩いてしまう女の子、本当に大き過ぎる位の違いだと思います。スポーツ空手の映像はネットにアップした人間はもしかしたらそれを可愛らしい、面白映像的に捉えていたのかもしれませんが、武道、スポーツという点からしても、大問題の事であり、それすらも面白おかしくしてしまうのが、今のスポーツのレベルだと思います。これは人間が本能的にスポーツというものの、本質、人間の素晴らしい可能性を発揮せずに、本当は下らない事を一生懸命になってやっている、その滑稽さ、を感じているからなのかもしれません。お話の中でも古代ローマの剣闘士は、裸で殺し合いをさせられて、それを酒を飲みながら貴族や民衆が見ていた、それが始まりなのだと。要は見世物であり、発祥にそのようなルーツがあるものは、根源がそれであり、そこからそれ以上のものが生まれる事はありません。

ペンを使ったマジックを見せて頂きましたが、それに驚く、食いついてしまうという事は、まさにそのスポーツに喜ぶ人間と同じだと。無意識のうちに、そのような言うならば、何も深い世界や教えの無い事に惹かれるような性質に自分がなってしまっているのだと。それを気づかせて頂き、ハッとさせられました。

ガムテープが広がったり、伸びたりする事象も、そのようなあり得ない事象が実際にその場で起こっているのに、それを理解する事が出来ないのだと。今までに無い事を理解する事が出来ないという事は、今以上にはなれず、今の現状は資本主義が間違っていると分かってきた時代のわけで、その時代において、更にこの国は、世界でも国が国民にお金を使わない国であり、その状態を享受する、という事だと思います。それでは自分自身も落ちていくだけであり、また次の世代の子供達に至っては今よりももっと酷い状況になってしまうのだと。自らが、今、この時に変わり、少なくとも希望のある世界を子供達に残していかなければならないのだと思います。

先生が持った竹刀を渡されると、重くて持ってられない、また竹刀で切られると、実際には無論身体は切れてはいないのですが、それと同様の感覚を細胞が感じて、自分を支えていた数人も一緒に倒れてしまいました。上から先生に打ち込ませて頂いた時も、自分の身体の中から「打ち込む」という選択肢、エネルギーが全く消えていました。それを考えるエネルギーも消えてしまったようでした。

それが大人数でも同じであり、先生曰く「人数が多い程、楽」との事で、このような世界がある事に、それ自体がまさにこの世の中が変わる希望、エネルギーではないかと思いました。これが仮に一国のリーダーが相手国から攻められそうな時に、先生のような実力を持っていたら、そのような心、政策、外交を攻められる前にうち、その戦争は回避できると思います。大人数という事だけでなく、メリケンサックをお腹にあてた状態からも、拳で突いて、相手を吹っ飛ばす事もでき、その拳とメリケンサックの間に他の人の手を挟んでもそれが可能だという事。

恐らくこれは世界の武道家は誰も出来ない事だと思います。本来、武道とは「矛」を「止める」という事で、それを追い求めるのが武道のはずですが、今の武道は世界的に大きな武道組織のトップでも飛び跳ねるような動き、軽い動きしか出来ないようなものが蔓延っています。本来のものとはかけ離れた状況です。

そのような状況でも頭でもスピリチュアルでもなく、高次元の実践でいく事。建設機器の遠隔自動制御も、今までに無い技術、考え方であり、現状よりも一歩進んだ事だと。テスラの人工衛星2500基もそうだと。そのような事に目を向けて、現状維持から脱却し、磁石のゼロ点からSからNへのジャンプのような変化、成長をしなければならないと思います。

一年最初の道塾から、とても素晴らしく、また計り知れない次元、可能性を感じさせて頂きました。ありがとうございます。
本年はもっと自らを飛躍させるような年にしていく所存です。
引き続き、御指導、御鞭撻の程、何卒宜しくお願い申し上げます。

「やる」か「やらない」かではなく、「やる」と一択、一進であることを常に肝に銘じて、まずは行動、勉強をして参ります

愛知 教員 51歳 男性 TU

1月1日、名古屋でも大きく揺れた能登半島地震。

以前から、宇城先生が、政治・経済や国際的な日本の立ち位置、自然環境(地球環境)に及ぶまで警鐘を鳴らし続けてみえ、まさにそれが現実化し、第1回の名古屋道塾に臨むにあたっては、気の引き締まる思いがありました。

それは、受講に際し、雑念をなくして宇城先生へ捨て身の気持ちで行かないと、この暗く、難局の時代に、先生が仰る、「一人革命」で立ち向かっていけないと感じたからです。

まず、五感の世界→六感の世界→次元の高い「気」の世界へ向かっていくことの重要性を学ばせていただきました。

五感のなかの視覚、聴覚は、脳→知識という順番で言葉に。そして、触覚、味覚、嗅覚は、身体→脳→知識という順番で言葉に。

いずにせよ、これは、五感を通じた知識は限界があり(居着いて)、その部分でしか言葉として発せられないものだと考えました。

5人がお互いの手首を握って連なり、宇城先生が端の方の手首をつまんだところ、その痛みは一番の端の方まですぐに伝わるという実証がありました。

そこには、一番の端の方は宇城先生につままれた触覚は一切ありません。しかし、痛みが人を介して伝播で伝わっているのです。それも一瞬に。

宇城先生は、さらに「石川県の方に、言葉だけで大丈夫ですか?」では伝わらないのだ仰いました。

その瞬間、五感と六感(スピリチュアル)にもなく、高次元の「気」の世界にはあるのは「心」であるということに気づかされました。

石川、そして能登半島地震の報道のかげに入っている富山の方々の痛みを知るこの「心」こそ重要であり、今の時代に必要であるということを教えていただきました。

また、「1+1=2」という暗記中心授業(五感からの言葉の授業と考えます)、「子どもに好奇心を持たせることが、教育であり、先生であり、学校である」
「先生自ら先を掛けられていない」と先生から厳しいお言葉もありました。

教育に携わる私にとって、正直、その一言一言がぐさりと胸に刺さり、一に勉強、二に勉強、三、四、五、六、七……も勉強と、まだまだ足りないことを教えていただきました。

宇城先生の命懸けの渾身の道塾で学ばせていただくことに感謝をし、「やる」か「やらない」かではなく、「やる」と一択、一進であることを常に肝に銘じて、まずは行動、勉強をして参ります。

今後もご指導の程よろしくお願い致します。