「師」とは、これほどありがたく、遥か彼方を歩まれている存在であり、心の道しるべなのだと
奈良 教員 60代 男性 Y.O
先日の道塾では、西田幾多郎先生の「純粋経験」とベンジャミン・リベット博士の「無意識の時間」、それらが宇城先生の「気」のスピードの説明につながるというお話がありました。
西田先生の「純粋経験」の時間のスピードは、「美しい夕日を見てきれいだな」と感じるスピード。リベット博士の「無意識の時間」は、「危ない」と思ってブレーキを踏む前にすでにブレーキを踏んでいる状態のスピード。そして、具合が悪そうな人に「大丈夫ですか?」と寄り添うスピード。これらのスピードよりも、宇城先生の「気」のスピードははるかに速いということが、道塾での実証を通じて実感できました。
そこに、理論として説明されていることと、それを実証できることとの決定的な違いがあるのだと感じました。
自分が正座して2人に肩を押さえつけられているとき、自分の意思で「立ち上がろう」としても絶対に立ち上がることができません。「立ち上がろう」と思ってから動作が始まるので、車なら衝突してからブレーキを踏むようなもの。夕日を見たときに「美しいとは何か」という定義に照らして「美しい」と判断しているようなもの。そして、具合が悪そうな人を前にして、声をかけようか見過ごそうかと迷いながら通り過ぎてしまうようなものです。
そのとき、先生に「気」を通していただくと、スッと立ち上がることができました。これは筋力の強さの勝負ではなく、明らかにスピードの勝負の差です。相手の「押さえよう」とするスピードと、「立ち上がっていた」というスピードとの違い。つまり「立ち上がろう」として動き始めるのと、先生の「気」によって「すでに立っていた」という状態のスピードの差こそ、圧倒的な違いなのです。
それがいつも先生が教えてくださっている「先をとる」「事の起こりを押さえる」ことに通じているのだと、実感できました。宇城先生は、ご自身のスピードを高める動作や思考方法を、私たちにも伝えてくださっています。
それは「心の発動」で行動することであり、先を読んで情報を集め、しかるべき手を打つこと。すべては子どもや孫の世代のために──。
そのように先を見据えて行動し、教え導いてくださる先生のもとで人生を歩めることに、幸せを感じています。「師」とは、これほどありがたく、遥か彼方を歩まれている存在であり、心の道しるべなのだと、あらためて実感できた道塾でした。
いつもご指導のあとの爽快感は、自分の時間が速まったことによる軽快感なのだと、ありがたく思っています。
今月も、生きる希望が湧くご指導をありがとうございました。
常に「身体はどう感じているのか」を大切に、あらゆる場面で感じていこうと思います
大阪 自営業 20代 男性 Y.K
私は今回、初めて参加させていただきました。
部屋に入った瞬間、異様な雰囲気が漂っており、「あ、これはとんでもない所に来たな」とふと感じました。その異様な雰囲気は、居心地が良いというわけでも悪いというわけでもありませんが、何かあるということだけが瞬間的に伝わってきました。
いざ講義が始まると、武術の話だけでなく、本来の人の反応、現在の日本の状況、不都合な真実、人としての心など、あらゆる視点からお話がありました。他の武術の講座では、ほとんどが“やり方”だけで終わってしまい、人生や生き方には活かせないと感じていましたが、今回の宇城道塾では、人としての“在り方”を学べる、ものすごい場だと感じました。
中でも「寄り添う心」──寄り添う心があれば、相手を簡単に引っ張ることができる。昔から大切だと言われてきたその心を、私は頭では理解していたつもりでしたが、身体では理解できていなかったと気づきました。
今回の対人関係の実験で、明らかな変化が起き、「これが寄り添う心なのか」と、その本質を身体で感じられた気がします。今、自分は頭では理解していても、それは知識でしかなく、“体現”が伴っていなかったのだと思います。
身体としての理解があってこそ、さらなる深みが生まれ、それが“在り方”へとつながっていく──。だからこそ、常に「身体はどう感じているのか」を大切に、あらゆる場面で感じていこうと思います。
これからも不都合な真実から目をそらさず、大切なものを守るために、日々学び続けていきたいと思います。
このたびは、貴重なお時間を誠にありがとうございました。
自分を信じて、出来る自分に近づくにはどうすればよいか?そこに向き合い、心を豊かにしていきたい
大阪 歯科衛生士 50代 女性 H.N
最初に西田幾多郎教授の「純粋経験」と、ベンジャミン・リベットの「マインドタイム」における、両者の無意識の世界についてお話がありました。
物事を判断したり、名前を付けたりする前の当たり前の体験=『夕日が美しい』と感じる心。思考が介在する前のありのままを感じる体験のことを純粋経験と呼ぶということでした。これに形容詞を付けたり、説明をしようとすることは、意識による行動であることを学びました。
私たちは、意識を持って行動することが日常で、意識=自分であることから、自分と対象が分かれています。意識を持つことで、判断してしまい、そこから分断が生じるのだと思いました。大切なことは「ただ見る」「ただ感じる」ということだと腑に落ちました。
ベンジャミン・リベットの実験でも、「行動しよう」と意識する0.5秒前から脳内で運動準備が始まっていることから、我々は0.5秒後の世界で生きていると言われています。
宇城先生はその無意識領域のさらに前に時間、気の世界、細胞の時間で私たちにご指導くださっていることに改めて気づきました。
様々な検証をした時に、頭で考える癖があると、「純粋経験」である感じる力を失ってしまいます。「席を譲ろうかな?」ではなく、「席を譲っていた自分」、まさしく心というスピードだと思いました。
この見えない世界を、体験することで日常が変わり、自分と他者との境界が少しずつ無くなって行くのだと思います。「自分」の意識ではどうしようもないことが溢れている世の中で、無意識の世界、自他が一つになる世界を経験し、心を育てていきたいと思いました。
検証では、縦に1列になった人を手で引っ張ろうとすると、対立して引くことはできませんでしたが、一度一番先頭の人と同じ目線に立って、それから手を引くと、何の抵抗もなく列のみんなが引っ張られて前に動きました。
この時、後ろで並んでいる人は前で何が起こっているのかわからなくても、身体が前に引っ張られて行く感覚だけがありました。これを「調和した」と表現されていましたが、まさしく、境界がない世界だと感じました。
テーブルを5人の男性がつかみ、前に向かって突進してくる。そのテーブルの前に立つと、身が縮み、心が背中へ逃げてしまい、いくら怖くないと言い聞かせても身体は逃げます。
しかし、宇城先生が横に立って守ってくださると、ストン!と身体の重心が落ち、心が冷静(安心感)になり、突進してくるテーブルが全く怖くなくなりました。さらに、そのテーブルは急ブレーキがかかったように止まってしまい、全力で押しているにもかかわらず前には進めませんでした。
無意識領域に、先生が気を掛けられ、押すという動作が意識はあるのに止まってしまった状態でした。
この貴重な体験のさなか、本当に心が満たされ、自分に余裕がでて、平和そのものの空気の中にいたことが印象的でした。これらの検証を通じて、意識でする行動は、対立しか生じないことを痛感しました。意識的に思った行動は遅く、力やスピードで負けてしまうが、考えるより前に動いている身体は、強く早いということを経験させていただきました。
また、この身体能力は、誰もが自分の中に持っていることを忘れてはいけないと思います。
自分を信じて、出来る自分に近づくにはどうすればよいか?そこに向き合い、心を豊かにしていきたいと思いました。
このような気づきを得ることが出来ましたのも、宇城道塾という学びの場でしかありえません。貴重なご指導をありがとうございました。
また、引き続きご指導のほど、よろしくお願いいたします。