2014年 大阪中上級 第2回 (2014.4.16)

すべては感謝の念から始まるということを実感 滋賀 中学校教員 54歳 女性 KI

 道塾に参加させていただく度に、自分の日常の横着さと気配りのなさに気づかせていただいています。 「本来ならばものすごい力を発揮できる素晴らしい身体を地球から借りているのに、 みなさんはどれだけ横着をしているのかということです。」 という宇城先生のお言葉にはっとし、目が覚める思いでした。 物をまっすぐにきちんと置くことによって身体が強くなり、乱暴に置くと身体が弱くなる。
この検証はいままでに何度もしていただいていましたが、今回リハビリ中の方が 同じ様に松葉づえを扱うことで、しっかり立てたり立てなかったりする映像を見て 本当に地球からエネルギーをいただいているのだということがはっきりわかりました。 その地球のエネルギーをいただいているということにすら気づくことができず、 自分の心に蓋をして自らその力を放棄してしまっていることを大変申し訳ないことだと思いました。 多くの日本人がマインドコントロールや現在の常識の中でもがき苦しんでいて、 このままではこれから先はたいへんな時代になるということを理解させていただきました。

  頭ではわかったつもりでも、身体に落とし込まれていない限り、明るい未来に向かって 動き出すことができません。本当に心の曇りや常識の殻を根こそぎ破って一つ一つ 真剣に取り組んでこそ統一体に近づくことができるのだと思います。 「自分が変われば周りが変わる。」というのも、意識しての行動のレベルではなく、 心から湧き出てくる泉のような力によって周りにも影響を与えるのだと思います。

 それは、一つ一つにどれだけ謙虚になれるか、真心を込められるかであり、 その度合いが高いか低いかでもあります。そう思うとまた一から出直さなければと 気づかせていただきました。
3人が正座をし腕を組んだ状態で、端の方の頭を押して横にたおそうとした時は衝突の力でしたが、 気を入れていただくと衝突が消えて柔らかさの中に強い力が湧き出てきました。 まさに母なる地球からエネルギーをいただいているという感覚でした。 すべては感謝の念から始まるということを実感させていただきました。ありがとうございました。  

 

自分でもできると言う自信を持つこと   滋賀 大学生 21歳 男性 KH

 先日の道塾におきまして、たくさんのご指導を頂き、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました。
 今回初めて懇親会の席にも参加し、宇城先生の我々道塾生に対する愛を感じました。 特に印象に残ったお言葉は「僕が一番気を使っている。だから君たちも気を使ってくれ」というお言葉です。僕はその言葉に深さを感じました。
 先生は気によって不可能を可能にし、たくさんのことに気づかせて下さいます。 しかし今回、実践以外でも、講話の時であっても、常に気を配ってくださっていることに気づかされました。塾生の反応や個々の表情を見ながら、笑いをとられたり、動画を見せて下さったりと、常に僕たちに対してたくさんの場面で気を使って下さっていることを知り、感謝の気持ちでいっぱいになりました。ありがとうございます。この有難さを常に心に止めて、これからも先生の下で学び、自分自身を見つめながら就活や将来の仕事に取り組んで参ります。
 また、今回もハッとすることばかりでした。一つは、道塾ではメモを取らないというその訳を身体で知ることができました。胸を押さえながら、相手をゼロ化した際、全くしんどくありませんでした。しかし、メモを取った瞬間に、胸が苦しくなり、呼吸ができませんでした。メモを取ると、「今」がないと先生はおっしゃいました。確かにメモを取ると、それに必死で、相手の目を見て真剣に話を聴けないのです。「目は心の窓」と言われる様に、その心がメモばかりに集中すると、目線下に落ち話が入ってきません。お話に心を集中させることで、自然と目線は前を向き、話も胆に入ってくるのではないかと感じました。 そして、メモというのは過去の事を書き留めておくものであると考えると、確かに「今」がないということになると思いました。
 「今」を限りなくゼロの時間に近づけるには、メモを取ってはもう遅い。今という点を濃いものにするには、心を話に集中させて聴くことが大事であると思いました。 また三人が腕を組み横に押す際に、調和した瞬間を感じることができました。 僕は顔を押された側でしたが、気を通して押された時、まったく衝突や痛みがなく、相手の手がスゥーと吸い付いてきた感覚でした。そしてそれを感じた瞬間もう倒されていました。まったく触れた手に固さがなく、すごく優しく柔らかい感触でした。これが先生のおっしゃる「柔らかさの中に重さがある、強さがある」という事だと感じました。僕が押した時には、必ず衝突があり、全然動きません。しかし気を通されると僕にもできました。
 本来、人間には誰にでもできる力を持っていると先生はおっしゃいます。僕にもその力があると言うことになりますが、気づけていない状態になってしまっている。そこに気づくためには横着さをなくし、謙虚であることが大切だと感じます。そして、自分でもできると言う自信を持つことだと思いました。これからを大切に今後も歩んで参ります。
 最後に3月の合宿で宇城先生に「歩き方が行き急いでいる」とのご指摘を頂きました。 それ以来、教わったことを歩く時から実践しております。最近は胆で歩く意識で歩いております。胆で歩くと姿勢も自然とよくなります。感覚も非常に良いです。次はこれを無意識レベルになるまで継続して参りたいと思います。 今回もたくさんの気づきがありました。大学の方も4回生となり、就活や卒論に向けて本格的になってきます。学問もしっかりと極め、同時に将来のことも見据え、今、何をすべきか判断して参りたいと思います。皆様の健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。ありがとうございました。  

 

競争と調和の両立、目指すべき社会のあり方   大阪 営業 41歳 男性 ES

 今回の講義で興味深かったのは、正座の姿勢から皆いっせいに立ち上がる実技で、単なる競争と気の通った競争との違いを検証したことでした。単なる競争は、動作の始点と終点とが皆ばらばらです。 反応速度が各人各様ですので当然なのですが、先生に気を通していただくと、動作の始点がばらばらでも、終点では皆ぴたっと揃う。それは一本締めでも同じでした。気の通った一本締めは音が際立っております。
 競争することが間違いなのではない、と先生は仰いました。競争をなくしてしまうとどうなるか。たとえば魚の群れがそうですが、あれはそれぞれの魚がまわりのスピードに合わせて泳いでいるのでしょうか。 もしかしたら魚の群れのあの見事なまでの調和は、それぞれの魚が衆に抜きん出ようとしてこそ可能な調和なのかもしれません。「和して同ぜず」という古い言葉の意味が、少しわかったような気がしました。
 われわれは競争と調和とは相容れないものだと思い込んでいる。反対と矛盾とをとり違える。調和を図るために競争をなくしてしまう。しかし競争をなくした社会がどうなるか。それは共産主義諸国の趨勢をみれば明らかです。競争なき社会はやがて停滞する。調和なき社会はやがて疲弊する。競争と調和の両立、これがわれわれの目指すべき社会のあり方ではないで しょうか。そうした社会の基礎を据えるものこそ、「心あり」の姿勢だと思います。
 先生曰く、世間には「雑用と呼ばれている事柄がある。その「雑」を「丁寧」に変えてゆく。そうすればもはやそれは「雑用」ではない。その積み重ねがわれわれの「体」を「身」に変える、所謂「身につく」のです。先生は重ねてこうも仰いました、「心は気をつくり、気は血をつくり、血は身をつくる」。ありがとうございます。 

 

自分でもできると言う自信を持つこと   滋賀 大学生 21歳 男性 KH

 先日の道塾におきまして、たくさんのご指導を頂き、心から感謝申し上げます。 ありがとうございました。
 今回初めて懇親会の席にも参加し、宇城先生の我々道塾生に対する愛を感じました。 特に印象に残ったお言葉は「僕が一番気を使っている。だから君たちも気を使ってくれ」というお言葉です。僕はその言葉に深さを感じました。
 先生は気によって不可能を可能にし、たくさんのことに気づかせて下さいます。 しかし今回、実践以外でも、講話の時であっても、常に気を配ってくださっていることに気づかされました。塾生の反応や個々の表情を見ながら、笑いをとられたり、動画を見せて下さったりと、常に僕たちに対してたくさんの場面で気を使って下さっていることを知り、感謝の気持ちでいっぱいになりました。ありがとうございます。この有難さを常に心に止めて、これからも先生の下で学び、自分自身を見つめながら就活や将来の仕事に取り組んで参ります。
 また、今回もハッとすることばかりでした。一つは、道塾ではメモを取らないというその訳を身体で知ることができました。胸を押さえながら、相手をゼロ化した際、全くしんどくありませんでした。しかし、メモを取った瞬間に、胸が苦しくなり、呼吸ができませんでした。メモを取ると、「今」がないと先生はおっしゃいました。確かにメモを取ると、それに必死で、相手の目を見て真剣に話を聴けないのです。「目は心の窓」と言われる様に、その心がメモばかりに集中すると、目線下に落ち話が入ってきません。お話に心を集中させることで、自然と目線は前を向き、話も胆に入ってくるのではないかと感じました。 そして、メモというのは過去の事を書き留めておくものであると考えると、確かに「今」がないということになると思いました。
 「今」を限りなくゼロの時間に近づけるには、メモを取ってはもう遅い。今という点を濃いものにするには、心を話に集中させて聴くことが大事であると思いました。 また三人が腕を組み横に押す際に、調和した瞬間を感じることができました。 僕は顔を押された側でしたが、気を通して押された時、まったく衝突や痛みがなく、相手の手がスゥーと吸い付いてきた感覚でした。そしてそれを感じた瞬間もう倒されていました。まったく触れた手に固さがなく、すごく優しく柔らかい感触でした。これが先生のおっしゃる「柔らかさの中に重さがある、強さがある」という事だと感じました。僕が押した時には、必ず衝突があり、全然動きません。しかし気を通されると僕にもできました。
 本来、人間には誰にでもできる力を持っていると先生はおっしゃいます。僕にもその力があると言うことになりますが、気づけていない状態になってしまっている。そこに気づくためには横着さをなくし、謙虚であることが大切だと感じます。そして、自分でもできると言う自信を持つことだと思いました。これからを大切に今後も歩んで参ります。
 最後に3月の合宿で宇城先生に「歩き方が行き急いでいる」とのご指摘を頂きました。 それ以来、教わったことを歩く時から実践しております。最近は胆で歩く意識で歩いております。胆で歩くと姿勢も自然とよくなります。感覚も非常に良いです。次はこれを無意識レベルになるまで継続して参りたいと思います。 今回もたくさんの気づきがありました。大学の方も4回生となり、就活や卒論に向けて本格的になってきます。学問もしっかりと極め、同時に将来のことも見据え、今、何をすべきか判断して参りたいと思います。皆様の健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。ありがとうございました。  

 

競争と調和の両立、目指すべき社会のあり方   大阪 営業 41歳 男性 ES

 今回の講義で興味深かったのは、正座の姿勢から皆いっせいに立ち上がる実技で、単なる競争と気の通った競争との違いを検証したことでした。単なる競争は、動作の始点と終点とが皆ばらばらです。 反応速度が各人各様ですので当然なのですが、先生に気を通していただくと、動作の始点がばらばらでも、終点では皆ぴたっと揃う。それは一本締めでも同じでした。気の通った一本締めは音が際立っております。
 競争することが間違いなのではない、と先生は仰いました。競争をなくしてしまうとどうなるか。たとえば魚の群れがそうですが、あれはそれぞれの魚がまわりのスピードに合わせて泳いでいるのでしょうか。 もしかしたら魚の群れのあの見事なまでの調和は、それぞれの魚が衆に抜きん出ようとしてこそ可能な調和なのかもしれません。「和して同ぜず」という古い言葉の意味が、少しわかったような気がしました。
 われわれは競争と調和とは相容れないものだと思い込んでいる。反対と矛盾とをとり違える。調和を図るために競争をなくしてしまう。しかし競争をなくした社会がどうなるか。それは共産主義諸国の趨勢をみれば明らかです。競争なき社会はやがて停滞する。調和なき社会はやがて疲弊する。競争と調和の両立、これがわれわれの目指すべき社会のあり方ではないで しょうか。そうした社会の基礎を据えるものこそ、「心あり」の姿勢だと思います。
 先生曰く、世間には「雑用と呼ばれている事柄がある。その「雑」を「丁寧」に変えてゆく。そうすればもはやそれは「雑用」ではない。その積み重ねがわれわれの「体」を「身」に変える、所謂「身につく」のです。先生は重ねてこうも仰いました、「心は気をつくり、気は血をつくり、血は身をつくる」。ありがとうございます。 

 

自身の成長が早急な課題である   京都 経営者 51歳 男性 SK

 今期2回目の道塾では、開始早々に当日に発生した韓国旅客船の転覆沈没事故 について、先生からご報告いただきましたが、いまから振り返れば、 今回いただいた制御方式の2つのシステムの一つであるフィードフォワードの ご教示や、知識偏重に基づく頭脳優先主義が人間力の低下を引き起こし、 そこから生まれた「心なし」が尊い命を奪う“人災”に発展した様子を、 聞き知り、不幸にもあまりに合致することが多いように感じてしまいました。 表面的にだけ「知る」ことの怖さを、いつもご注意いただきますが、 まだまだ裏に隠れた心なしや、自然界への軽視、政治や今の環境の中に潜む 事実や歪みがあるように思えてなりません。 本来人類に備わる潜在的な能力を通して自然界との共存による調和を、 一人一人が気づくことの大切さと、私たち自身の成長が早急な課題であることを 改めて気づかせていただきます。

 今回の道塾では、 統一体での「剛」「柔」「ゼロ化」に対して、 頭脳で優先する部分体の「硬」「軟」「腑抜け」について 気による検証を通して、多くの事を気づかせていただきました。 部分体での居つきによる身体の呼吸停止がはっきりと体感できました。 気を通していただいたゼロ化の状態から、“メモを取ろとうする” 意識が起きた瞬間に気の流れを止め、身体が滞るような無防備状態(腑抜け) となり、負荷をかけられた痛みに対峙する「硬」への変化がおこりました。 これは、まさにスポーツにおけるケガが発生する状況と、全く同じような 感覚だと感じる取ることができました。 一つの動作に意識が集中することで、その動かそうとする周囲に「硬」が起き、 意識の抑留とともにそれ以外の身体全体に気が通りにくく、機能停止が起きて 全く無防備となり、これが地球との繋がりが断たれた浮いた状態だとわかります。

 それだけに負荷がかけられた痛みや衝突による圧力が非常に大きく感じます。 気を通していただいた時に感じる、全てにセンサーが働き、細胞一つ一つに スイッチが入っている状態と明らかに違うことがわかりました。 この状態は、まさに身体が強くなるということだけではなく、 身体全体が一つとなり、頭脳による指示ではなく、 自然界との共存に基づく細胞からの意志や指示なので、 ここに調和を優先する心が生まれるのだと思います。 この状態にある自分の価値観の基準は、今までの自分のものとは 違うところにあり、その変換に気づいて、謙虚になることこそが、 人間力を磨く私たちの修行なんだと改めて確信します。

宇城先生に、講義の中で、「心は気をつくり、気は血をつくり、血は身をつくる」 とお示しいただきました。 宇宙生命体として、自然界に共存する細胞の意志を優先する調和の心は、 しっかりと見据えて今を生きて未来に向かう姿勢から、 大きなえエネルギーを創り、身体に気をつくり、これが細胞への循環エネルギー として血を産みます。そして全身に循環されたエネルギーが一体化して身を 成すのことなのだと気づかせていただきました。 そして、最後にサンチンにおける「ただ、ひたすらに!」というご指導で、 「脇を締める」という意識下の集中から、何事にも居つきに繋がる 「硬」「軟」が繰り返していた自分自身の肩の力が抜けたように感じ、 瞼の上に光が入り、部屋が急に明るくなったような感覚をいただきました。 最後に「柔」を身体で気づかせていただいたように思い、 感謝の気持ちで一杯です。いつもご指導有難うございます。