2021年 京都宇城教師塾( 2021.6.30 ハートピア京都)

●私立中学校・高等学校 京都 30代 女性

今回の教師塾でも、様々なことを考え直す機会になりました。特に、「今」と言う場所から「下降するのか、上昇するのか、そのままで行くのか」は、その人自身の取り組み方で変わってくるとおっしゃった時に、ここ数年の自分とすごく重なりました。

今年度より、勤務先を異動し新しい環境になりました。今まで勤務していた学校では年月が過ぎるにつれ、自分のやり方や考え方は正しいのかを疑問に思い始めました。何をするにも自信がなく、ダラダラとただ時間が過ぎるのを待っていたように感じます。振り返ってみると宇城先生がおっしゃっていた「下降している人」だったと思います。

ある方に頂いた言葉で、「思うままに!」という言葉があります。現在でも何かあるたびに思い出していますが、「思うままに」と言われても・・・。と行動することを恐れていました。しかし、今回思い切って異動を希望し、行動することでほんの少しですが変われたように思います。自分が変わるという事と、頭で考えずまず動くという事の大切さを改めて感じました。行動した事で、行き詰っていた気持ちが少し楽になり、周りの目を気にすることも少なくなりました。「師匠」の存在が今の状態を上昇させるキーポイントだとおっしゃっていました。私には「師匠」と呼べる人が、今はいませんがこれから様々な人と出会い、関わりながら信頼できる人ができればと思っています。まだまだ勉強しなければいけないことが多いですので新天地でも学び続けたいと思います。

そして、教育は「導き出す、引き出す」と言う意味もあるとおっしゃっていて、すごく納得しました。指導するということよりも、その生徒が持っている力を引き出すことが教師のやるべき仕事だと思いました。現在受け持っている生徒の中に眠っている何かを少しでも多く引き出したいと思います。そして、私自身も生徒から見て「魅力」ある人でいたいと思います。まだまだ魅力ある人になるには程遠いですので頑張ります。

先生に頂く言葉が自分を見直す大切な時間になっております。今回の教師塾も貴重なお話をありがとうございました

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

昨日は、教師塾でのご指導ありがとうございました。「今」というその瞬間は二度と来ない。だからその一瞬一瞬に自分が何をすべきなのか。何をするのか。今回それに気づかせていただきました。横着をしてここまででいい。どうせ無理。などと頭で考え、勝手に自分で変な言い訳を並べて納得させていたように思います。そんなことをしてもアトム化した人間になるだけで、当然身体も腑抜けになるだけ・・・。どこかでわかっていてもそうなっていく自分。日本国民。そう感じた時、この先の未来が本当に怖くなりました。

そのような思いの中、教師塾でのご指導をいただき、3対3で帯を持ち引き合う検証では、マスクを外す。相手をみると強くなり、体育座り。気合いを入れると弱くなる。しかし、宇城先生が気を通すと。その域を超えて強くなる。「そこに答えはない。はるかに次元の違うところだ」とおっしゃるレベルを目の当たりに、気のどこまでも包み込む力に圧倒されました。これまでも身体を通して実践で指導してくださってきましたが、そこではない。もっと上があると常に先生は先を見せてくださいます。

私たち教師は本来そのように生徒に「先」を見せていかなくてはいけない存在なのにも関わらず、年齢と共に身体が退化し、口先ばかりで実践もない根性論だけで教育している。「剣道初段と7段から指導を受けるのは違うでしょ。」まさにその通りで、本質を教えることが全くできていないということに今の自分の力不足を痛感します。物質的な豊かさ。教育のICT化やグローバル化がいくら進もうが、そこに本質はないということ。人間としての尊さ。愛おしさ。畏敬の念。そこがあってこそであるということ。「古」に立ち返る。今回先生が頻繁におっしゃっていたことが今朝からずっと思い返されます。本当の「人間の強さと覚悟」とは、コロッセウムや戦国、江戸時代という生死がかかった生き方から出てくる言葉の重み。生き様。本当の意味での血の通った関係をつくれているのは、宇城先生の元で学ばせていただいている塾生の皆さんであるとこれまで以上に感じました。先生という太陽が常に照らし、見守り続けてくださることへの感謝を忘れることなく行動します。

これからの学校の在り方についてもご助言いただきました。ここ数年の人の集まりなど、少子化が進むこれからの時代からすると本当に一時的なものであり、今その選考の在り方について学校として真剣に議論することの大切さを教えていただきました。偏差値とは何か。何を基準に選考するのか。立命館宇治としての在り方を今こそ深く考えるタイミングだと強く感じました。引き続きご指導のほど何卒よろしくお願い致します。

●私立高等学校 兵庫 40代 男性

宇城先生、コロナ禍でのご指導ありがとうございました。

歴史から様々なことを教えていただきました。自分の人生のピークはどこか。そこまで深く考えたこともありませんでした。最近学校での自分の立場、立ち位置、今までの自分についてよく考えます。今のままではダメなのははっきりわかります。2か月後の自分。1年後の自分。5年後の自分。なんとなく平凡に日々を過ごしてしまうことは絶対に嫌です。今までの自分は変えられませんが、そこから気付き今をがむしゃらに頑張っていく。先生が言われる通り死ぬまで右肩上がりで成長していきたいです。今の自分には地力がありません。だからこそ覚悟を持って勉強を続けて実践していきます。

「細胞、身体は知っている」

三対三で帯を持って引っ張る検証をしていただきました。

マスクを着けている組と外している組が引っ張り合うとマスクを外している方が勝ち、正座組と体育座り組が引っ張りあうと正座組が勝ち、気合を入れて頑張るぞ!と言った組と言わなかった組では言わなかった方が勝ちました。片方が相手に焦点を合わせると見た方が勝ちました。頭ではわからなくても身体はわかっています。先生に気通していただくと一瞬でできる自分に変化させていただきます。

できない自分もできる自分も自分です。できない、地力のないことを受け入れ、そんな自分をさらけ出す。良い恰好をしない。生徒は気付いている。偉そうにせず、調子にも乗らない、謙虚に。そして生徒に寄り添って行く。「できた」という事実を希望に突き進む。生徒との信頼関係。裏切らない、裏切れない。どんな時でもビビらない自分に。

今回も多くの「気」をありがとうございました。今後もご指導よろしくお願い致します。

●公立高等学校 三重 30代 男性

この度も宇城教師塾に参加をさせていただき、貴重な学びをいただき誠にありがとうございました。次元の違う凄まじいご指導をいただけること、師を持たせていただける事に心より感謝申し上げます。また、いつも、関係の先生方がお心のこもったご準備をいただいていることに心より感謝申し上げます。会場に到着すると全てのことをご準備いただいております。自分のスピードの遅さを感じるととともに、先生方のレベルに到底及ばない自分を改めて認識させていただいています。教師塾で学ばせていただくことは、会場では出来るつもりになっている、宇城先生のエネルギーによって出来るつもりにさせていただいているだけです。私が学校に帰って生徒の前で同じことをさせていただいても、宇城先生と同じようには全く出来ません。その時に宇城先生の偉大さと自分の教師としての力のなさを痛感します。だからこそ、根本を勉強して生徒の力を引き出せる人間にならなくてはいけないと強く思います。教師塾で実践され、自分が体験する感覚を、いつか目の前の生徒にも感じてほしい。自分の低いレベルの言葉では伝わらないことを、実践を通じて身体で感じてほしい。生徒が自分の力を取り戻せるように導いていけたらと思います。「目」についてご講義いただき、聞く「姿勢」の大切さ「目」が備える力を教えていただきました。

本日、人間関係で悩む生徒に「目」と「間」の関係について話しをし、教えていただいたことを実践させていただきました。宇城先生のようには全く出来ませんでしたが、それでも、その時の生徒の目の輝き、うなずきを見て生徒の成長、変化を感じました。「教える」ことよりも「自分で気付くこと」、気付かせることの大切さを感じました。本校には様々な特性を持った生徒がたくさんいます。様々な生活背景を抱えた生徒がたくさんいます。その生徒のことを分かってあげたいけれど、本人にしか分からないことがたくさんあります。分かってもらいたいと思っていない生徒がたくさんいます。その生徒が自ら気付くことは、難しいと思い自分が現実から逃げていました。生徒に言って自分が傷つくことを恐れていました。生徒、生徒と言いながら、結局は自分でした。「真心」を込めること。自らが実践して本当の意味を理解できるように精進したいと思います。自分は一人革命が出来るレベルにはありません。ですが頭より先ず行動。そして実践して本来の力を取り戻し周囲と進歩成長できる自分になりたいと思います。この度はご指導をいただき誠にありがとうございました。

●公立高等学校 奈良 30代 男性

第2回の教師塾にてご指導いただき、ありがとうございました。いつもどんな状況でも新しい気づきの機会をいただけることに感謝申し上げます。

今回私の中に最も深く残ったのは、今変わること、変えることに時間をかけないということです。宇城先生はいつも瞬時に変え、それを体感させてくださいます。正座で上から押さえられた状態では立てない状況でも、気を通していただくとすぐに立てるようになりました。帯を引っ張り合う実証では、マスクの有無、相手を見るか否か、体育座り、正座での違いを瞬時に感じさせていただきました。最近、私が関わる生徒の動きや姿勢に物足りなさを感じていましたが、それは私自身に問題があることに気づきました。剣闘士、武士、特攻隊のように、命が懸かった人のような覚悟は当然無く、生半可な向き合い方をしていました。自分自身に力もなく、見せることもせず、やろうともしない。典型的なダメな思考、姿勢から未だに抜け出せていなかった自分を恥ずかしく思います。まずは自分自身が今変わること、そこに時間をかけないことが私の課題です。できなくてもやろうとする。そんな姿勢で気概をもって向き合っていきます。

ご講義の終盤に体育座りのチームと正座のチームで帯を引っ張り合いました。正座が当然強いはずが、宇城先生が気を通されると体育座りが圧倒しました。不可能だと思っていたことを可能にさせる。今の学校現場に必要な教師像をお示しくださったように思いました。自己肯定感が低い生徒、コロナや受験で不安を抱えた生徒が多いように感じます。そんな生徒に、できることを示す、瞬時に変わることを実感させることが生徒を安心させ、自信を持たせ、前へ向かう力となると思います。簡単なことではないかもしれません。しかし、今は、自分が変わる、生徒の不可能も可能に変えるという思いを強くしています。気に満ちた会場でそう思えるエネルギーをいただきました。ありがとうございます。

今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。

●公立小・中学校 奈良 20代 男性

宇城先生今回もお忙しい中、教師塾を開催していただきありがとうございました。教師塾に通うたびに、体も心も元気になっているように感じます。これも先生の「気」がそうしてくださっているからだと感じています。いつか私自身が、子供たちにそういった経験をさせてあげれるよう、学びを深めていきたいと思います。

今回私の中で印象に残っているのは、帯を使った実践です。その中でも宇城先生が仰っていた、「マスク1枚は私も相手にも移さない、2枚は私だけはかかりたくない、3枚だと、、、」このお話を聞いて、改めて「寄り添う」ことの大切さを感じました。しかし、今まで私が考えていた寄り添うではなく、「愛情(その人のことを思う)を持って寄り添う」ことが大切だと感じました。この思いを持ちながら子供たちと接し、ともに成長していきたいと思います。また、子どもだけでなく周囲の方々にも同じように、「愛情をもって寄り添う」ことを大切に、仕事、私生活で実践していきたいと思います。

また、子どもたちの心に火をつけることも忘れず、教え込むのではなく引き出すを目標に取り組んでいきたいと思います。

これからもご指導よろしくお願いいたします。       

●公立高等学校 奈良 30代 男性

今回も宇城先生の貴重なお時間を頂戴し、我々教師塾の塾生に温かいご指導を賜りましてありがとうございます。

現在、目まぐるしく変化する世の中で、“平和ボケ”である怖さに気づかせて頂きました。気がつけば“奴隷”になっていること。引き返しが出来ない状況になっていること。表には必ず裏がある。それを見にいかないと一人一人の人間が人間でなくなるのではないかと思います。裏を知って判断すべきであって、何も知らず流れに流されるままほど恐ろしいことはないのかと・・・コロナに関してもそうだと思います。大々的に表には出ていませんでしたが、海外で進められている“ワクチンパスポート”が、日本でもこれから進められる予定であり、海外へ行く人だけの接種証明書だけではなく、マイナンバー(識別番号)と紐付けし、管理されることで多くの自由が奪われるのではないかと感じています。まさに、何も知らなければ“奴隷”です。ただ、批判したり、対立したりなど国に対して敵対心を持つことが正しいとは思いません。相対するものに対して、柔軟にしなやかに、寄り添うことができないといけないのだと思います。ただ、自分にはその術がまだありません。術がない自分に今できることは、まず知ること、目に見えてこないことを見ること、そして先をみることだと思います。

今を変えなければ未来は変わらない。ただ“今”と思っていてもその“今”も一瞬で過去になる。その一瞬一瞬で変える・行動する事が大切であり、瞬発力が必要なのだと思います。ただそのスピードには、頭での発動ではついていけないと感じています。細胞レベルでのスピード。だれもが持っている力を発揮すること。心からの発動。その繰り返しが、一瞬先の状況を掴むことが出来、“先を取る”ことになるのではないかとまだまだ未熟ですが自分なりにそのように感じています。

宇城先生は、人間の本質を指導されているので、野球であろうが水泳であろうが、スポーツ以外でも音楽であろうが関係なくご指導されます。世の中には、種目それぞれの指導方法が溢れていますが、それはその種目にのみにしか通用せず(実際は通用というか誤魔化しで、人が持っている力を発揮させる観点からすると意味をもたない指導ですが・・・)、それぞれの種目の先っぽにしか目がいっていないような指導ばかりです。私自身のイメージですが、大木の目に見える先の葉っぱにのみ目が行っている状況で、大木を支えている、栄養を一気に吸い上げている、地に隠れて見えない根の部分がほったらかしの状況の指導が横行している気がします。根にしっかり栄養が行けば、放っておいても、先の葉っぱは、活き活きするのですが・・・まさに部分の指導ばかり(自分もそうですが)。大切なことに気づかせて頂きました。

スポーツの指導も行う際、授業やクラスで指導をする際、いかに生徒に寄り添うことができているか。自分の経験に当てはめても、子ども達との関わりの中で、話をするテクニックであったり、経験値からの関わり方であったりと色々技術としては身につけてきたつもりですが、そのような部分的なことよりも、本気で寄り添う事が出来ていたかどうかで子どもとの関わりが変化していたような気がしています。

自分と関わる子ども達が活き活きしているのか。そして、自分自身は活き活きしているのか。そのようなことを自問自答しながら、先生のご指導を受けさせて頂いておりました。自信を持って自分が“活き活き”しているとは言えないのが正直なところです。まずは、自らが活き活きすること。そしてその波動を関わる子ども達に伝えられたらと思っています。その一つは、自らをさらけ出すことが必要だと感じます。失敗も含めさらけ出す。その中で最終的には、自分が出来ないと相手に波動を移すことができないので、多くのことができるよう学び続ける。その学び続ける姿勢(何を学ぶかは大切ですが)が生き様になり、その生き様が自らをさらけ出せばさらけ出すほど魅力が溢れてくるのだと思います。

私自身その学びが宇城先生の教師塾にあり、同じ志を持った塾生とともに突き進めることができることはとても幸せなことなのだと感じております。

最後には、宇城先生から我々塾生に温かいお言葉を頂戴いたしました。曲がった背中、足踏みしている自分の背中に手を添えて頂き、すっと伸ばして頂き、押していただいたような感覚になりました。

引き続きご指導よろしくお願い致します。 ありがとうございます。

●教育委員会 岐阜 40代 男性

先日の教師塾でのご指導ありがとうございました。

教師塾は、道塾でのご指導とはまた違った雰囲気で、宇城先生が私たち教師の立場に即したかたちでお話しいただけるので、より具体的に宇城先生のお話をお聞きすることができます。

今回改めて感じたのは、「人間には無限の可能性がある」ということです。宇城先生の厳しくもあたたかい言葉の隅々にはいつも「君たちはできる」というメッセージがあるように感じます。気を通されてできる自分と、何もない状態でできない自分。一瞬で「できる」と「できない」を行ったり来たりする自分。そのことを身体を通して分からせていただける時間は本当にありがたい、かけがえのない時間です。できることならば「できる自分」で生徒の前に立ちたい。それができたらどれだけ幸せだろうか。いつもそう感じます。身体をとおしたよろこび、幸せ。

一方で私自身にとって厳しい言葉もたくさんいただきました。

「変わるときは一瞬で変わる」

宇城先生のご指導を受けて、変わるべき人が一瞬でスイッチが入り、変わっていったエピソードをいくつもお聞きしました。そのすべてが私にとっては希望のエピソードです。しかしそれに引き換え私自身は…と考えてしまいます。いつまでも、グズグズとした横着ぶりが抜けません。

気は目に見えず、触れることもできず、においをかぐこともできません。しかし明らかに存在し、私たちはその「気」に囲まれて生きています。果たして私は「気」を信じられていないだろうか…。いや、私が信じることができないのは、「気」の存在なのではなく、その「気」を感じる自分自身なのだと思います。「できなかったらどうしよう」「間違えたらどうしよう」「恥をかいたらどうしよう」「叱られたらどうしよう」。何に固執し、何を恐れているのかもわかりませんが、常にびびっている自分に気が付きます。

「胸を張って、堂々と進め」

宇城先生は、そうおっしゃいます。

しかし今の私が胸を張って歩こうにも、頭だけのバーチャルです。「胸を張って進む」ための身体がない。そう感じます。身体を練り、鍛え、実践をくぐっていくことでしか真に「胸を張って進む」ことはできないと実感しています。

今回のご指導をとおして、コロナ禍において、真に希望を見出すことが難しい世の中で、知らず知らずのうちに「自分さえよければ」とい生き方をしていた自分に気づくことができました。恐ろしいことに、そんな自分には「日常」のなかでは全く気付くことができませんでした。知らないこと、気づかないことは本当に恐ろしいことだと思います。

教育界は、新しい時代に向けて、デジタル化、個別最適化、探求型学習推進、子どもたちの主体的な学び…、と威勢が良いです。しかしそれらの議論には決定的に「身体」が抜け落ちてしまっています。身体をとおした力、調和、気の力…。私自身はそんな大きな流れに呑まれつつ、清きも濁りも併せのむつもりで頑張っていこうと思います。

いつも本当にありがとうございます。

今後ともご指導よろしくお願いいたします。 

●公立中学校 奈良 30代 男性

宇城先生、教師塾の先生方、先日は本当にありがとうございました。会場に入った時の熱気と温もりに参加しておられた全ての先生方の熱意と本気度を感じ、自分もその場に参加させていただけることへの有り難さを実感しました。私自身もまた、日々精進に努めたいと思います。

二人組での正座の取り組みの際に、ペアの中先生が私の肩を押さえた瞬間、掌から熱を感じました。体感的には38度程でしょうか。感染への対策は十分にされている中でのこの手のひらから感じる熱は一体何なのか。未だにその熱が私の肩から感じられます。細胞が宇城先生の気によって活動している。上から押さえられた時にも、気がとおっている時には本当に押さえているのか?と思ったほどです。ですが、自分が上から押さえる立場になった時、何も変えていないのにいとも簡単に立ち上がってくる。反発から調和へ。自分の中で改めて腑に落ちました。自分と相手が調和し一体となったことで上から押さえる側の人間も抑えられる側の人間も一つになる。自分の勤務する学校の集団がそうなれた時。今はまだ想像もできません。

自分のできることをやる。できる範囲で。決意する。志す。果たして私にできるのか。それでもやろう。頭ではなく心、身体をそうさせる。毎日反省しながら。

宇城先生の姿を見ながらそんな事をずっと思っていました。昨日は自分の本当に情けない部分ばかりを感じました。今日から自分の弱さと向き合いながらまた一歩ずつ進みます。宇城先生、ご指導ありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。 

●公立高等学校 兵庫 50代 男性

宇城先生、教師塾でのご指導ありがとうございました。

今回の講習でも様々なことを教えていただきました。「教師」というのは教えたがりですので、面白い、使えると思ったことをすぐに授業などで話してしまいます。知ったことの表面を即物的に教えてしまい人がまわりにもたくさんいます。私は、これまで宇城先生に学んだことをよく理解もせずに生徒に伝えてしまい、何度も失敗をしました。体育座りで弱くなることを初めて聞いたのは、何年も前のことです。同僚たちにも分かってもらえると思って体育座りのことを職場で話しましたが、全く分かってもらえず、もちろん何も変えることはできませんでした。正座と体育座りをした後の綱引きで見せて頂いたように、宇城先生が「気」がすべてを包み込んでしまうことを見せてくれるのは、それを戒めるためであると思います。

また、「一人革命」、「一隅を照らす」、「大河にコップ一杯の水」など、拙速に全体を変えようとするのではなく、今いる場所、目の前の生徒から始めることを教えて頂いています。そういうことを何度聞いても自分に即時的に全体を変えたいという欲を抑えられないのがうまくいかない理由なのだと思います。

宇城先生は、先生の指導で生徒が変わったという話を聞いて、「その子の将来を真剣に考えているのが伝わるんだろうな」とおっしゃいました。それを聞いて、宇城先生のすべてを包む「愛」の大きさ・深さを知るとともに、学校の現場で妥協したり、諦めたりをくり返してきた自分と宇城先生の違いを思い知らされました。TeachingではなくEducating、生徒のことを考え、寄り添うこと。足りないのは生徒への「愛」であり、「愛」から行動へのエネルギーが出るのだと思いました。

●公立高等学校 奈良 40代 男性

先日は、教師塾にてご指導いただき誠にありがとうございました。

教師塾で、宇城先生の講義を拝聴していると、いつも自然と生徒の顔が頭に浮かんで来ます。先日の講義においても、講義を拝聴しながらいつも言い合いになる(教師が問題視する)生徒のこと、従順な(教師が問題視しない)生徒のことが思い浮かびました。

しかし、私たちが気づかなければいけないのは、今の学校現場では子どもたちを誤った物差しで評価し、子どもに自らは出来ない、人と比較すること、劣等感を植え付ける指導、教育をしているということです。本校は、中学時代に勉強が出来ない、しない、一般的に学力が低いと言われる生徒たちが集まる学校です。高校受験に向けて、学校、クラスで順位をつけ大体の子どもたちが「ここしか合格しないから」という理由で本校を受験し、入学しています。従って、子どもたちは常に「出来ない」ということが先に立つ傾向にあります。まさに、アトム化です。教師の力が無いゆえに、また教師の視野が狭いゆえの犠牲者が目の前の子どもたちです。私たちの日常の活動で、子どもたちを奴隷化させていることに気づかなくてはなりません。

宇城先生は私たちに情熱をもって伝えていただいています。今のままではだめだ。指先ではなく、掌の部分に気づくこと。目で見えるものに真実はないということ。子どもの可能性を引き出す方法がこの世界にあるという希望を身体、細胞を通じて教えていただきました。

宇城先生からは、学校教育の絶望を感じますが、同時に明るい希望を身体で感じます。何に気づき、どこを向いて走ればいいのか。宇城先生ご自身がその道標です。後は、自分次第です。子どもたちの前に立つ我々が出来る、映す、実践、それしかありません。

どうする。何をする。先日も多くの問いを投げかけていただきました。日常の中で、宇城先生と繋がりながら、生きる。生ききる。この覚悟です。毎日、1分1秒が実践です。止まらず、切らず、生きていきます。

ご多忙な中、ご指導ありがとうございました。今後ともご指導よろしくお願い致します。

●公立小学校 京都 20代 男性

先日は、教師塾でのご指導、ありがとうございました。

当日は、保護者が来校し、教師塾は30分ほどの参加となりました。保護者対応や今後の方針など、たくさん悩んでいたのですが、30分ほどのご講義、実践を体験し、自分はいかに小さい世界で悩んでいるのかを思い知らされました。そして、困っている保護者に対して、結局自分は何もできていないという無力さを感じました。できると思っていた自分が、全くできていないことは、実践塾で痛感していることでもあります。仕事でも同じだと思いました。保護者の相談を受けても、その保護者の子の未来をどう切り開いていくか、引き出せない自分がいます。これまでの自分は、頭のどこかで「できるんだ」と思っていたから、浮いてしまっていて、これまでに経験したことのない「まさか」の時には、全く歯が立たないのだと思いました。そのようなことに悩んでいる中、先生のご講義で、自分の目の前がパッと明るく、希望を感じることができました。「いかに自分が小さい世界で悩んでいるのか」「そこに捕らわれて、今がない」「無力な自分を悲しんでも、何も変化しない」ということに気付かされました。

思い返せば、前回も、「できる自分よりも、できない自分と向き合い続ける」ということを感想文で述べています。できない自分と向き合い続けるのは、なかなか難しく、この数ヶ月で、横着な自分に戻っていることを感じます。教師塾でも感じたこと、自分の課題と向き合い続けて、今後の教育活動をどのようにしていきたいのか、よく考えていきたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

宇城先生、教師塾でのご指導有り難うございました。

便利なものが増え、技術や化学は進歩しているように見えて、人としての力が落ちていること。その理由は地球に生かされている命に対する感謝と覚悟が足りないからだと気付かせて頂きました。

生きている以上、毎日が稽古であること。

だからこそ、今とどれだけ真剣に向き合い生きているのかを自分自身がもっと真剣に考え生きなければならないことを教えて頂きました。

帯の両端を大人3人が持ち引っ張り合う実践では、相手を見つめると強くなりました。これは、相手と向き合う覚悟があるからだと感じました。

目の前のことから逃げずに向き合うことで身体が強くなる。

自分の型が整うことで、自分の心も整い身体が強くなる。

先生に気を通していただくだけでなく、自分でもできることがあること。

そして何よりも、宇城先生に気を通していただくことで変化する自分の身体を感じることで、自分の中にできる自分がいるということと、できない自分がいるということに気付かせて頂くことができます。

宇城先生と出逢い、自分の潜在能力だけでなく、自分以外の人が持つ力や可能性についても希望を持つことができるようになりました。

教育者である自分自身が深さを求めずに今を生きていれば、目の前にいる子ども達の可能性を奪ってしまう。そのことを忘れずに、横着で怠惰な自分と決別する覚悟を持たなければなりません。

技術や科学の進化によって思考停止状態となり、深さを求められなくなってきている教育現場で、今自分に何ができるのか。そのことを真剣に考え、ただただ実践していく。それしかありません。

対立ではなく、相手も含めて幸せにできるだけの実力を自分自身が身につけることが今自分に足りていないことです。宇城先生のように、たくさんの人を笑顔にできるような人であれるよう、歴史に学び、今を真剣に生きていきます。いつもたくさんの気付きと愛情をいただき心から感謝しています。

引き続きご指導よろしくお願いいたします。

●公立高等学校 奈良 30代 女性

この度の教師塾もご多忙に関わらず、ご指導いただきまして、誠にありがとうございました。

前回から約2ヶ月の間に、職場において「コロナウィルスに学ぶ」機会がありました。身体の怯えが招く様々な衝突、問題、トラブル・・・。感染による症状より、多方面からの情報で錯乱し、振り回される現場、保身に執着した言動などを目の当たりにし、恐れるべきはウィルスではなく「怯えた身体」をもつ人であると痛感いたしました。宇城先生のご指導を受けてこそ、得られた感覚です。教師塾という場がない時期でも、宇城先生の教えに護られているようでした。「日々感謝」という言葉に事実が合わさりました。ありがとうございます。

今回も、宇城先生の「気」が見える形でお示しくださいました。目で見える以上に、細胞が受け止めているのか、実証をされている途中、急速に心拍数が上がっているのが分かりました。直接、宇城先生に触れていませんし、実証に参加した訳でもありませんが、そこに居るだけで…新鮮な感覚でした。

特に衝撃を受けたものは、「細胞に護られている」実証でした。相手の体を両手で挟み、合掌をするように片側を押すと反対側の手がなくなる感覚になりました。挟まれる方になっても同じく「消えた」のです。一方、反対側は隙だらけで、押されるとすぐ倒れてしまいます。自分の身体の前後で、それを一度に体験し、不思議でした。また、何もない状態で左右に揺さぶると、頭は遅れて付いてきますが、気を通された身体は頭と一本になったように揺れ、相手を倒せる。部分体では弱く、統一体では強い。つまり、気が通っていない私たちの身体は、部分体で隙だらけだということです。逆に「消えた」方は、「ゼロ化」され、護られた。衝突が隙を生み、命取りになる。気の通った細胞は身体を護り、その細胞に働きかける「気」は何から生まれるのか。それもまた、刻み込まれたDNA(細胞)なのではないかと感じます。細胞一つの小さな「気」を増大・充満そして拡散するために、生き方や生き様があるのだと感じます。

宇城先生が振った水のペットボトルを持つだけで、大人数が動く。ボールが持てない程に重くなる。現段階の私では到底、考えが追いつきません。だからこそ、さらに学びを深めたいと火がつきます。深化と進化です。教師として、目の前の生徒に「やって見せられる」ものはあるのか。「引き出す教育」として私たちは何が出来るのか。マスクの有無や体育座りと正座で結果が変わる。「見たから未来が分かる」という学びを私たちには出来るのか。宇城先生に出会い、正直に知れば知るほど苦しいです。

宇城先生は、「30歳からは何を目指して学ぶのか。師匠をもち、目指すものがあれば、その後の生き方は格段に成長する。変わるなら劇的に、そこに時間をかけなくていい。」とご指導くださいました。今まさに30歳です。何に時間をかけ、どこにスピードと変化量を求めるのか。「衝突」にばかり苦しむ生徒とその親。自分が生きる場と時代=空間・時空と調和できる身体をつくることが急務であることは明確です。言葉・身体の両方でご指導くださる宇城先生の全てを身体に受け、行動の中、生き方に返します。この度も有り難うございました。

引き続き、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。 

●公立中学校 奈良 30代 女性

ご指導ありがとうございました。あっというまの二時間でした。

今回、剣闘士の話が一番印象に残っています。明日死ぬかもしれない毎日や、明日にはどちらかが死んでいるという日々の中での覚悟というのは、今の私の想像を優に超えるものだったのだと思います。私は、明日死んでもいいと思えるほど後悔なく日々を過ごせていません。それが、私の鈍さだと思います。「今」の瞬間を一生懸命過ごしている子どもたちは間であったり、気を機敏に感じ取ったりしているのですね。私は、「間抜け」になっているようです。「間」が抜けていたら、子どもとの信頼関係もできないですし、「エデュケーション」もできません。10年後にどんな自分になっているか想像するのが怖いです。けれど、怖がっていても何も進まないので、今の自分から変わりたいです。止まることなく、進んでいき、挑んでいきたいです。そして、10年後の自分を楽しみにできるようになりたいと思います。

今まで何度も教師塾に通わせていただきましたが、どこかでお客さんのような感覚があり、自分はできないんだろうな、と心のどこかで思っている部分がありました。機会をいただいて学ばせていただいているのに全く主体性がなかったですし、本気のつもりでしたが、本気でなかったのだと思います。本当に失礼だったと思います。すみませんでした。先日、そのことに気付かせていただく機会があり、今回の教師塾では少しでも宇城先生を映したいと思い参加させていただきました。まだまだですが、自分自身を変えていきたいと思います。ありがとうございました。

●公立中学校 奈良 30代 男性

今回の宇城先生のお話をお聞きして、私は、部活動の指導について考えました。部活指導とは、何なのか?私は、普段の指導で、何を指導しているのか。スポーツ(遊び)を通して、何を子どもたちに気づかせるのか。宇城先生から見ると、スポーツ(オリンピックも含む)は遊びのレベル。では、私のしている部活指導(卓球指導)は、宇城先生にとっては、どのように見えるものなのか。答えは明白です。遊びの中の遊び(レベルが更に低いもの)ということです。今回強く感じたのは、指導者のレベルによって、「遊び」という言葉の意味も変わってくるということに気付きました。

かつての剣闘士は、生死をかけて勝負をしていた。今はもちろん、生死をかけることはできない。学校教育の中では、むしろ「命をかけるな(熱中症の予防)」などの指導を行わなければならない。もちろん、子どもたちの命を守ること、大切にすることは、教師に限らず、大切なことである。しかしながら、子どもたちの前に「指導者」として、立つのであれば、何を指導するのか、よく考えて指導にあたるべきである。

学校現場では、かつて競技の経験がある教員を「専門家」と呼ぶ。ただ、経験があるだけで、重宝されるのだ。確かに、部活指導において、指導の方法、練習の方法がわかるということは、教師の業務上、楽な面もある。しかしそれは、二重にマスクをつける政治家と同じく、自分のことばかり考える集団である。

子どもたちのことを考えず、専門家と呼ぶのは、あまりに残念であると感じた。だからこそ私は今回の話を受けて、子どもたちに何を指導できているのか、考えたが、誰かの真似事、プロの真似事、それでは「専門家」とは呼べない。

私は、以前から勝利至上主義の部活指導は避けてきたつもりだ。しかし、勝利至上主義を目指さないからといって、子どもたちの指導を手抜きにして良いわけでは無い。

大切なことは、子どもたちに何に気づいてもらうのか、自分が何を大事にして、何を伝えていくのかを今後、考えていきたいと感じた。

宇城先生はこう仰いました。

「教育とはエデュケーションであり、能力を引き出すことが大事だ」と。

その通りだと思いました。競技経験があろうが、無かろうが、関係ないのです。出会う子どもたちの、どのような能力を引き出すかということが、教師(指導者)として大切なのだと。周りから「専門家」と言われ、長くなる鼻などへし折って仕舞えば良いのです。

そんな安っぽいプライド、自信は自己満足でしかなく、無能な指導者に出会ってしまう子どもたちに申し訳ない気持ちです。いつ何時も学び続け、多くの知識をもって、子どもたちの指導にあたりたいと背筋が伸びる思いがしました。

これからも卓球は、スポーツ(遊び)ではありますが、私はそんな遊びも悪いばかりでは無いと思います。私は、卓球自体もとても好きです。どんな子どもたちでも、気軽に楽しめるスポーツなので、その遊びを通じて、子どもたちの本来の能力(統一体としての力)を引き出せる指導者になれるよう、邁進していきます。

大切なことに気づかせていただき、ありがとうございました。感謝いたします。

ありがとうございます。

●私立大学 大阪 60代 男性

今回も、ご指導を誠にありがとうございました。

【細胞】気が通るとは、気が細胞に入る。改めて細胞に働きかけるという次元であることに気づかせていただきました。細胞レベルで何事も捉えることができていなかった。できるかどうかだけで判断していたところがあり、浅いところでしか物事を捉えていませんでした。まさに宇城先生のご指導は次元が違いました。

科学で証明できないこと、理屈ではなく身体が知っている。木刀の握り一つで変わる。帯が伸び縮みする。気によって「空気」全体が動く。その気の中に入っている人間が動く。力が出せない。まさ に「先を取る」「間を制する」である。スピードの次元が違う。その場で瞬時に変わる。眼が変わる、姿勢が変わる、しかも瞬間変わる、それを実感できる、こういったことは他にはありません。

現代人は、すべて証明される理由づけばかりで分かった気になっているだけで実際の根本・本質・真理が分かっていない。歴史を辿ればそういった事に繋がっていく。歴史を学ぶとは、勉強するとは、知識として学ぶだけではなく身体(細胞の変化)を通して学ぶことにある。そこに立ち返る、繋がっている。すべては身体に出る。恵まれた今の時代が人間の横着さを生み出し、便利だというところにスピードへの勘違いが生じ、それに慣れてしまっている。本来のスピード(瞬発力)とは、作られたものではなく自身の中に本来あるべきもの、ということを宇城先生は実証していただいている。

「できた」は本来あるべき自分、それがいつからかどんどん出来なくなってしまっている。出来なくしているは自分自身である。子どもにはそれがない。子どもは「無邪気」であるというお話を以前伺った。邪気がない、自然体である、素直である、損得や捉われがない、それこそが本来のエネルギーであり、大人になればなるほどそういったエネルギーが無くなっている。頭ですべてを解決しようとしている。言葉も行動も。全て捉われの中の自分が居て、自身を内面からさらけ出すことができない、勇気がない、元気 がない。元気がないとエネルギーを高めることすらできなく、何かに頼ってしまっている。それでは自分を変えることも、周りを変えることもできない。

一人でもやり抜くという決心、覚悟が身体に表れる。それこそが「一人革命」である。そして自分の奥底にある本質に気づく時間をいただいている。まさに横着な自分、自分を信じるという自信が持てていない。まずは教師(指導者)が変わる。子どもたちを変えるのではなく、まずは自分が変わるエネルギーをこの教師塾を通して引き出していただいている。

毎回、教師塾が終わった後、身体にエネルギーが漲るのを感じる。それを自分で切らない。宇城先生は常々「切らない」ということを言われます。切る=横着(身体)。「心あり」が行動に、歴史の深さを知ることが自身の謙虚な生き方に。一に勉強、二に勉強、三に勉強…とは。 「間」(時間・空間・人間)を大切にすることに繋がる。「先を取る」とは、頭ではなく細胞、身体、心にある。全ては自分次第であるという自覚、責任感、覚悟が必要である。細胞が働いて、細胞に働きかけてこそがエネルギーであり、それは人間が本来もっているものである、しかしそれを年齢が重なると共に失ってしまう、なくしてしまっている。環境がそうさせているのかというとそうではなく自分である。教えることにばかり目が向き、引き出すことができていない。それが今の教育現場で子供のエネルギーを下げる原因になっている。

大人は「子供は分かっていない」というが、実は子供は大人以上に分かっている。分かっていないのは大人の方である。その証拠に自分を変えようとしない、周りの目、世間の評価、目先の結果に捉われている。それ自体が分かっていないことであるが、身体がすべてを知っているといえる。それを実際に気を通していただくことで眼には見えないものを感じさせていただける。細胞が感じているのか、感じていないのか。これも説明できない事であるが湧き上がってくる何かがあるのは事実である。こういったことはこれまでの自分の中にはなかった。これも変化であるといえる。言葉では説明できない、という実証を経験できることなどは他にはないと感じる。

体育座り、胡坐、正座の比較は非常にわかりやすい。その本質が分かっていないために、小学校では体育座りが常識になっている。座り方ではなく、全てがエネルギーに繋がることを知る。未だに大学生でも無意識で体育座りをする学生もいる。子供の頃の間違った教え(行動)がそのまま身に成ってしまっている。今の学生が親になった時に自分の子供もそう成り兼ねない。非常に危険である。実際にやってみると一目瞭然である。しかしそこが分かっていないと体育座りになる。「楽だから」に行ってしまう。子どもは疑わずに自然にやっている。現場の教師が分かっていない、しかし身体は既に分かっている。何を常識にするのか、間違った常識が子供たちの身体を弱くし、エネルギーを下げている。それが何年か後に様々な弊害、障害を招いているのも事実であると教わった。それを知らない、変えれない教育現場に問題がある。そういった意味での勉強不足、宇城先生は50年~100年先が見えておられ、それを我々にお伝えいただいている。こういった場は他にはないと改めて実践を通して気づかせていただいた。

後半は、二人組で肩を抑える・・・立てない、気が通ると立てる、女性が立てて男性は立てない、半分のエリアの人が立てて反対側の人は立てない、あり得ないと思っていたが、宇城先生はそこに我々を導いていただける。まさに教える ではなく、引き出す指導が今の教育現場で果たしてどれだけあるだろうか、教師(指導者)がしているかどうか。

教師塾という機会を通して、己を知り、己に立ち返る、すべてを受け容れる、こういった機会をただけることが本当に有難いと感じる。ありがとうございました。今後とも、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

●公立高等学校 奈良 40代 男性

このようなコロナ禍の中、ご指導いただき、誠に有難うございました。いつもエネルギーを頂いて、帰路につくときが本当に心地良く、「明日も頑張ろう」と素直に感じることができ、本当に感謝の気持ちで一杯です。

今回、剣闘士のお話をしてくださって、生きるか死ぬかの中で行われる会話、立ち振る舞いを考えていました。私は、社会科の教員ですので、剣闘士のことは何度か生徒にも話をしますが、その時どんな話をしていたかなんてことは想像もしませんでした。よく宇城先生は、「物語を作って話をするといい」と教えていただいていましたが、この剣闘士の話を子どもたちにすれば、どんな風に考えるのか、どんな想像をするのか、すごく楽しくなりました。これが先生のおっしゃられる「エデュケーティング」だと思いました。内から引き出す、本来持っている力を引き出すことができれば、子どもたちは成長していくんだと感じました。ぜひ、子どもたちの前でそんな話をすれば、子どもたちの輝きが増すのかと思います。

生きるか死ぬかの世界の中には本当に純粋な技術、文化があり、人間が本来持っている力を生み出すことができ、平和を作るエネルギーがそこにはあるんだなと感じました。私自身も子どもと関わらせていただいている立場です。少しでも子どもたちの成長の手助けをしたい、心ある生徒を育てたいと思い、勤務させて頂いている学校で自分が変わらないと、子どもたちも変わらないと思い、多くのことを指導させて頂いています。私にはまだまだ実力がなく、子どもたちを惹き付けるだけの力がないなと痛感していました。この先どうすれば、いいのか。どのように指導していけばいいのか。本当に独りよがりで、分かっていたところなんですが、少し生意気になっていたのだと思います。宇城先生が私たちに教えて下さるように、愛情を持って、時には厳しく、でも光を照らしてくださるように子どもたちを導いていける力をつけたいと思いました。

相手の胸に両手を当てて、片方の手で押されると、反対の手で当たっている胸の感覚が消えてしまう実践をさせて頂いたのですが、この感覚はすごく怖いなと思いました。宇城先生は消えている方に刀で刺されて気づかないという話をされていましたが、人間の体は本当に素直なんだと思いました。気を入れて頂くと、両方感じることができました。気が入ると、敏感に感じることができるのは、自分の体を守ることができたのではないかと思いました。

人間の身体の素晴らしさを、実践を通じて教えていただき、誠に有難うございました。私はまだまだ力不足ですが、生きるか死ぬかの真剣さを身につけるように努力をしていきたいと思いました。いつも本当に生きるエネルギーを頂いています。有難うございます。

これからも引き続き、ご指導、何卒宜しくお願い致します。

●公立高等学校 奈良 20代 男性

この度の教師塾でご指導いただきありがとうございました。あの短時間の中でも多くの気づきを与えてくださり感謝しております。私自身も生徒の興味関心を刺激し、気づきを与えられるようにならなければならないと強く思うばかりでした。

変化の激しい世の中を生きていく生徒たちに対して自分が出来ることは、teachではなくeducateであると確信致しました。ただ単に教科の指導、部活動であれば技術の指導を行うのではなく、生徒をどう導いていきたいのか、その部分を大切にしていきたいです。また、そのためにはまずは自分が実行、実践する必要があります。自分自身を磨き、深さを出さしていくことで人を惹きつける魅力のある人間になるのだと思います。

一方、私たちが生徒たちと関わる時、従わなければならないルールがあるのも事実です。しかしそのルールに固執しすぎることなく、自分の中で軸を持ち、どう導いていきたいのかに焦点を当てて彼らと関わりたいと強く思います。

ありがとうございました。

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

まずは、このような時勢の中で、教師塾を開催していただいたこと、宇城先生、事務局の皆様、感謝申し上げます。また、当日は、校務上の理由で遅参する形になりまして、大変失礼いたしました。

この数日というものの、学校校務に追われ、合わせて、担当クラスの度重なる問題もあり、それに対応する日々でございました。その中で、やはり生徒は、大人を「見ている」ということと、だからこそ、「魅力でひきつけなければならない」ということを宇城先生のお話を伺って痛感いたしました。背中で示す、行動で示すということを常々意識しながらも、やはり、問題が起こってから、自分の行動の一つ一つ振り返ると、自分の負の部分に蓋をしてしまっていたことに気づきます。教員として、中堅の年代に差し掛かり、求められることも多くなりましたが、その中で、自分が「できる」と認識していることと「できない」と認識していることがあり、その切り分けを自分の中で完結し、「できない」ことには見切りをつけている自分がおりました。ある意味「逃げ」に徹底している部分があったように思いますが、そこに「向き合う」ことが必要だと感じております。

教師塾の中で、印象的であったのは、宇城先生がこの人生の中で、最高到達点を目指されているとう趣旨の発言があったことです。私自身、この数年、「生」と「死」という部分に触れる機会があり、それについて深く考えるようになってきました。その中で、自分がどのように生きるのか、生きているのが理想なのか、というような部分も隙あるごとに考えております。何か、その人生の中で、どんどん降下をしていくということが一般的な考えであると思いますが、その中で、人生の中で、最高到達点に向かっていることを伺い、度肝を抜かれました。

教師塾での宇城先生からお教えをいただく時間は、私自身の心の在り方、姿勢の在り方を見つめなおす時間にさせていただいております。

ありがとうございます。

●公立中学校 奈良 30代 女性

宇城先生、先日もご指導いただきありがとうございました。
 今回の、正座から立ち上がる検証や背中と胸を押さえる検証でも、一瞬で自分の動きが変わりました。足、そして全身があたたかくなり、足が床と繋がっているような感覚。意識してではなく、自然とそうなった、という感じでした。どこかに力を入れたり、無理をすることは不要で、眠っている細胞を起こせば間は強くなると言うのを身体で感じ、また3人ずつ帯の両端引っ張る検証や木刀をつかむ検証を見せていただき強く感じることができました。

そして、身体で実感したことと、自分自身の日々が乖離してきている、ということも感じました。スポーツを学校の部活動で行うということ。それが正しいと多くの教師や生徒が感じている現状。スポーツと武道は似て非なるものだと思っていますし、感じてきました。しかし、それでは現状は乖離したまま…。「スポーツに武術を持ち込むべきではない」と宇城先生はおっしゃっていた言葉が心に残っています。

持っている点がまだ繋がっていない。無心の離れ、統一体には程遠い。まだ意識している。今回はそれを改めて実感しました。学びある時間をいただきました。ご準備くださった先生方にも感謝申し上げます。

ありがとうございました。

●私立中学校・高等学校 京都 30代 男性

今回の教師塾は、心が落ち着いていない状態で参加しました。生徒が不祥事を起こしてしまい、それに伴って保護者連絡をした後に参加したからです。「子どもの方がよくわかっている」「子どもの方が変わる」という言葉が、そんな私の心が見透かされていたのではないのかと思うとともに、心に響きました。理解できない、その事実を消化できないのは大人の方であることはよくあり、その結果、教員が大人への対応を意識して物事の本質から外れていってしまったり、大人のアプローチにより子どもが本質から外れていってしまったりすることがあります。こうして宇城先生に定期的に学ばせてもらうことで、ニュートラルに戻してもらえること、心の指針を整えてもらえることの有難さを再確認しました。

コロナ禍において、ワクチンが日本でも積極的に接種ができるようになりました。その中で私は、自身のアレルギーの関係でワクチンを受けることに抵抗がありますし、そもそもちゃんと検証されていない、数年後どんな症状があるのかわからないワクチンは本当に必要なのかという考えがあります。メディアではワクチンを接種することを推奨していますが、ネットではワクチンに関して否定的な意見もたくさん見ます。まさに情報化社会の中で、何が真実なのかわからない、答えのない問いに直面した状態になっています。そんな中で、今回の教師塾では2つの納得解を得ることができました。一つ目は、気が細胞にはたらきかけるからコロナにかからないということです。コロナワクチンは細胞にはたらきかけますが、気も細胞にはたらきかけるからこそ、気の状態がよければワクチンは必要ないのではないかと思いました。これまでも何度も、先生からそれを習ってきたのにもかかわらず、日々、マスコミやネットの情報を得る中で、自分の心の指針がどこへ向けたらいいのかがわからなくなっていたことに気づくことができました。二つ目は、マスコミなど一般的に正しいと言われていることに対して批判的な思考をもち続けながら、本質を見つめることの大切さです。先生はいつも、私たちに様々な事象に対して、先生の視点を与えてくださいます。「確かにその通りだな」と思うものもあれば、ほっこりするようなユーモアにあふれるものもあります。今回は、「オリンピックのPCR検査はいい加減。うがいしたら大丈夫。ドーピングをする選手がいるのだからそれぐらいはする。」という言葉が心に残りました。私にはまったくそんな発想がありませんでした。海外の選手がきても、国の代表である選手たちはワクチンを打ち、PCRを受けているからこそ大丈夫だと信じていた、性善説に立っていた自分にとって、自分がいかに平和ボケ、思考停止になっていたかを気づかせてもらったとともに、その視点を提示されたときに笑顔になっていました。  

 今回最も心に残った検証が、先生が水の入ったペットボトルを上下に振った後に、私たち集団に渡すと、集団が上下に動いてしまうというものでした。その検証を受けたとき、心が明るくなり、とても楽しかったです。コロナを受け付けない細胞、身体の状態とは、まさにこのことなのかなと思いました。抗体ではなく、細胞自身がコロナウィルスを受容しないという免疫力こそが気なのかなと思いました。これからも、自分なりに本質を見つめながら、自分を信じて過ごしていきたいです。

今回もありがとうございました。  

●公立中学校 大阪 50代 男性

宇城先生。先日も教師塾で御指導頂き、誠に有り難う御座いました。

「今日は、またどんな講義をして頂けるのだろう?」と、楽しみに参加させて頂きました。最初に、書籍『帝国を魅せる剣闘士』からお話しして頂きました。紀元前50年頃から西暦50年頃まで盛んに行われていたという「剣闘士」同士の命を賭した闘い。そして、それを熱狂して観戦していた「庶民」。古代ローマの闘技場“コロッセウム”の存在は知っていました(小学生の頃に、ブルース・リーの映画『ドラゴンへの道』で知りました。奇しくもブルース・リーとチャック・ノリスとの決闘の舞台になっていました)が、私の知識はその程度のもので、そのような残虐な行為が行われていた事など全然知りませんでした。

今現在の視点からは、その残虐さは一目瞭然です。しかし、その当時の「庶民」にとっては、「剣闘士」同士の闘いを観戦する事は当たり前な事で本当におもしろい娯楽だったのでしょう。しかし、現代日本のオリンピックを取り巻く「国家」ー「国民」ー「アスリート」の関係性が、その古代ローマの「権力者」ー「庶民」ー「剣闘士」の関係性に類似しているという視点は、このように教えて頂かないとなかなか気づけないと思いました。そして、今回も宇城先生に示して頂いた実証の数々。まさしく、江戸時代の「打たずして勝つは上の勝ち也」の世界を現代に甦らせていらっしゃるのだと実感させて頂きました。本当にこのような世界があるという事を体験させて頂ける事が有り難い事と思います。あと、以前にも御聞きしましたが…。「植物人間」と宣告をされた妹さんを回復に向かわせたお兄さんの逸話を御聞きすると、自然と涙が出てきます。人を思う、その心に感動します。

宇城先生。今回も色々と御指導頂き,誠に有り難う御座いました。また、御指導頂ける機会を楽しみにしております。

有り難う御座いました。

●公立中学校 奈良 20代 男性

大変お忙しい中、またコロナ禍である中で私たち教師のために教師塾を開催していただきありがとうございました。

私自身、2年ぶりの参加となりました。教育の現場に今年の4月から戻ってきて改めて今の教育という大きな流れへの疑問を抱くことが多く、生徒たちへ指導する際も損得感情に訴えかけていく方が生徒には理解しやすいのではないか?との声を聞くたびに胸が痛くなる一方、それに対して自分自身が自信をもっておかしいと言えない力のなさを痛感しています。

そんな悩みを持つときに宇城先生にお会いし、実践の中で目に見えない「気」や人間の本質についてやってみせていただくことで「悩んでいる場合ではない」、「前に進み続けること」と自分を鼓舞することができます。

教育の大きな流れや方向が決まっている中で宇城先生がおっしゃっておられる「一人革命」という重要性、誰がやっても同じであるという「再現性」の必要性を感じています。

私自身まだまだ未熟者ですが、ほんの少しでも生徒や先生方がイキイキと生活を送れるように、明日から学校現場で当たり前のあいさつや礼儀を実践していきたいと思います。

宇城先生にお会いするたびに私自身の明日への活力になります。ご指導いただき、ありがとうございました。

●公立高等学校 奈良 20代 男性

第2回教師塾でのご講演ありがとうございました。

私自身、この4月から高校生としては初の担任を受け持つこととなり、試行錯誤の日々を送っています。

その中で、自分の中で信念をもって進めていこうとする事柄に対して各方面からくぎを刺され、正直苦しみを感じ始めていました。

今回の教師塾では、宇城先生に実際に気を送っていただき、「できる自分」と「できない自分」を瞬時に体感することができました。

「できる自分」である時には、自然と身体の中からエネルギーが出てくるのを感じ、身体がポカポカと熱を帯びるのが分かりました。また、マスクを着けている場合と、マスクを外した場合での綱引き(帯引き)では、マスクによって信じられないほど大きな力を失っていることが分かり、愕然としました。ただ、最後のマスクをしている場合でも、宇城先生が気を通すと、マスクをしていない自分たちより大きなエネルギーがあり、簡単に綱(帯)を引かれたときには、思わず笑ってしましました。それと同時に、なぜか引く前から「負ける」と感じている自分もいました。

中盤での、メジャーリーガーの大谷翔平が最近バットの握り方がものすごく良くなっており、その影響で良い結果が生まれている。といった話になったとき、ただ漠然とニュースを見ていた自分がいましたが、大変興味深く、どのような面で、良い握り方になっているのか知りたくなり、野球塾の方にもぜひとも参加させていただきたいと思いました。

日々の仕事の中で、しんどい気持ちをもって、自然とHRでもしんどそうにしている自分がいたように思いますが、今回の宇城先生の仰った、「学校の先生は元気な姿で生徒の前に立ち続けなければならない」という言葉を耳にして、ハっと我に返りました。

これからは、周りからいかに言われようとも、自分自身に信念をもって邁進し、元気な姿で日々のHR運営や授業を行えるように心がけたいと思います。

第2回教師塾でのご講演、本当にありがとうございました。 

●公立高等学校 奈良 50代 男性

先生、この度もご指導、誠にありがとうございました。

私は愚かです。生徒の名前どころか、生きていく上で教師として、人間として大切なことを時として忘れ、自分本位になり、一つのことにとらわれたり、長く強くこだわる癖もあります。

生徒の名前、携帯電話、財布、時計。年間、いったい何回、自宅に置き忘れることでしょうか。(あれもったか、これもったかと嫁が玄関でやさしく、うるさく助けてくれることに感謝です)必要な物を忘れる。・・・。ひょっとすると忘れ物は、実は本当はそんなに必要で無いから忘れるのかもしれないなどと思いつつ、自身を慰めながらも、いや、そう都合良く思いたいだけなのかもしれません。どこかでそれが無いと落ち着かないと感じる自分がいるのでしょうか。「しまった、忘れた。まあ、ええか・・・。何とかなるか。」「取りに帰ろう。」「今は、何とかして別の物で補おう。」当然、これまでその時その時で様々な対処をしてきたし、これからもその場しのぎもしていくでしょう。携帯品の忘れ物からでもふと、このように感じている自分がいます。何が正解は自分でもわかりません。ただ、感じることから今の、その時の自分の状態というものを誤魔化さずに知る、気付かせていただくことはできます。そのような機会を与えていただいていることも事実で、間違いないように感じます。何に気付き、何を感じ、どう対応していくのか。直ぐに、即答せよ。グズグズしている、そんな暇はないよ。鍛えられてええがな。

「はい。」

先生に教師塾で教師だけで、教師にフォーカスしていただき、ご指導いただくことは本当に有り難く、まさに希望です。この自分の、先生方の希望です。むちゃくちゃ、何でも、ダントツで、今でもどんどん出来ている、何でもできまくっている人が前に立ち、その方にご指導いただいているので、当然、この我々は、この自分は出来るようになっていく。

「啐琢の機」。あとは、この自分が自分で自身の中から殻をつついて破れるか。出来るかどうかでは無く破り続けること、やり続けること、工夫をしていくこと。師は、絶え間なく、外から、いや、それぞれの中の芯に届くくらい、細胞に届くくらい(正解は届き、突き抜け、周囲にも、そしてご自身にかえされている、と思います)まで愛情を持って我々塾生に接し、ご指導下さっています。一人一人の目の前におられようが、おられまいが。

想う・・・。

自分でも気付かないくらい小さな一歩かもしれないですが、一人でもやる。共にやる。この心意気とそこから起こる実践が必ずや成る、繋がっていく、巻き込んでいく。先生がなされています。どのようなかたちになっていこうが、学校と教師はなくならないし必要だ。ただ、・・・。

先生のとんでもないエネルギー、それを全身に浴びた塾生がエネルギーを出して、子供たちへ。生徒、保護者、家族、地域へ、次世代へと。良い循環になっていく、渦となって伝わっていくことを信じてやみません。

俺がやる。俺がやらんと誰がやるんや。我・・・。知らんがな。あかんあかん。

共にだ。自分一人では何も出来ん。ひっぱるんやない。一緒に歩むんや。

くそー。まあええか。あかんあかん。またやってもーたな。

これくらいにしとくか。あかんあかん。

横着で、傲慢で、逃げだし諦めたくなる一方の自分がいつも一緒、隣にいることを大いに認めつつ、そいつを嘲笑してやり、包んでやり、叱ってやり、許してやり、死ぬまでそういう一方の自分と寄り添って前へ、共に、生きてやります。情けない自分に寄り添い、そいつと共に突破する。これは決して精神論でもバーチャルでも思い込みでも無い。我々には出来る、出来ている師が、師の存在が目の前にあるから。

先生、教師塾の皆さん、本当にありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。自分の住む世界を、見て聴いて自ら手を伸ばして触れ、どんどん広げて大切なことを身体で痛感しながらやっていく。一人でも、そして共に。前進です。

「血だらけや。ムカデ競走や。一緒にやる、ムカデ競走や。スピード速いからつてこれるか、気付いたら手も足も血だらけやで。けど、一番や。何やっても一番や。」(うわー、先生、笑ったはるわ・・・。そうですね、ダントツの他の追随を全く許さない1番ですね。)

「はい。」とずっと、いつでも返事ができる自分でいられるように精進し、必死について行きます。また1からです。振り落とされないように、しっかりとしがみ付いて。

ご指導、何卒よろしくお願い申し上げます。