望月稔先生のこと

開祖盛平と望月稔 合気道養正館の望月稔先生に初めて取材したのは、1982年のことでした。
 静岡県静岡市にある望月先生のご自宅には、スタンさんと何度も足を運び、取材させていただいたので、よく覚えています。

 1926年(大正15年)に講道館に入門し、嘉納治五郎先生のお弟子さんであった望月先生はのちに嘉納先生の命で、合気道開祖植芝盛平翁の直弟子となります。武田惣角にお会いした時のお話も詳しくされていたので、柔道と合気道、大東流の歴史において、まさに当時においても歴史の証人のような方であったのだなと、あらためて思います。

 初めて取材でお会いした時は、講道館に通い始めた頃のお話を詳しくされていました。寒稽古に下宿先から片道4時間かけて講道館に通っていた望月先生(朝4時の寒稽古に行くために毎日夜の12時から歩いて通っていたそうです)を見かねた三船久蔵先生が、自宅に居候させ内弟子として稽古に通わせた話。嘉納治五郎先生が若き望月先生に行なった様々な指導者教育。さらには、植芝翁のもとでの稽古の日々の様子。
 今のハウツーの指導のあり方では到底想像ができない、人が人を育てる、自らの人格で教育するという、日本独特の指導法があったことが偲ばれます。

 また印象に残ったのは、望月先生の時代から、「武道をスポーツにしてはいかん、いや、スポーツとして教育に組み込むべきだ」といった議論が盛んにされていたというお話です。80年、90年も前から、武道がいろいろな方々の考えのもと、その将来に危機感をもたれていたのだなということが読み取れます。

 望月先生は実に博識で、武道以外の様々なことにも精通されていて、お話は本当に多岐に及び、先生の前に何時間も正座してお話を聞きながら、江戸時代の寺子屋もこんな感じだったのかなと、不思議な気持ちになったのを覚えています。

 これは、会見集には載せなかったことですが、望月先生が戦時中モンゴルに行かれて、現地で武道を指導されていた際に、あることが問題になって現地の方に疑いがかかり日本の兵に射殺されそうになった際、望月先生が現地の方の前に仁王立ちになって、「打つなら俺を打て!」と言って守った話にとても感動したのを覚えています。

 望月先生のご自宅に泊めていただいて取材をしたこともありました。夜遅くまで武道談義をしてくださり、昔ながらの五右衛門風呂にいれていただき、朝は4時半にたたき起こされ、望月先生がつくってくださったお味噌汁とたくあんの朝食をいただいきました。まさに合宿さながらの取材だったと思います。スタンさんはというと、当時畳アレルギーがひどくなったとかで、「僕はホテルに泊まるよ」とさっさとホテルに行ってしまったのです。さすがにその時は、「一人残してあんまりだ!」と泣きそうになりましたが、今はそれも笑い話です。

 笑い話と言えば、こんなこともありました。スタンさんが毎日取材ばかりを行なって、本業であった翻訳の仕事をほとんどしなくなった時期、気づいたら取材資金がなくなってしまい、しかしどうしてもあることを聞きに望月先生の静岡の道場に行きたいというので、一番安い鈍行列車で望月先生に会いに行ったことがありました。急行料金すら払えない状況で、よくそこまでして取材をしたものだと、スタンさんの情熱は、本当になみなみならぬものがあったなと思い出されます。

 皆、スタンさんのそういう真摯な情熱に魅了され、いろいろなことを語ってくださったのだと思います。今は天国で望月先生と武道談義をしているのかもしれません。(木村)

 

[『合気ニュース』編集長 スタンレー・プラニンとの取材の思い出]