2013年 東京上級 第4回 (2013.8.20~21)

気で制したものは、そこに和が   埼玉 不動産業 46歳 男性 K..S

 今テレビ等で話題、問題になっている数々の出来事は、多くの情報、意見があり、私の様な者では正直な所真実が見えづらく、何が正しいのかも判らず混乱してしまうのが現状です。それに対する先生のお話は、私が最も信頼できる主軸となっており、真実を知る上での大きな足掛かりとなっております。
 検証では、20人位で内向きで円をつくり、左右の人とがっしり腕組をし、1人だけ手の平1枚を出し、円陣の中に入った別の1人が手の平の接触面だけで円陣を動かそうというものを行ないました。幸いにも円陣の中に1人入り動かす役を私にやらせていただきました。まず、中に入っただけで、20対1という不利な状況にプレッシャーを感じ、諦めにも似た状態で、この時点で力も半減していました。普通に力でやっても当然全くびくともしませんでした。この検証は、手の平の接触面だけなので、たとえ腕力がもの凄く強くても受け手1人が負けるだけで、全体を動かす事は不可能だと思います。

 そして先生が仰っていた通り、これを動かす能力は私にはないというのは事実であり、脳にも身体にもその様なプログラムが備わっていないので、残念ながら出来ないのは当然の事です。しかし、先生に気を通していただくと、変化が起こります。気は無味無臭なので、私にはすぐ具体的には解りませんが、気の通った状態で手を合わせ、少しずつ力を加えていくと、今回自分の変化よりも、まず相手方に変化が見られました。そのあたりから「出来る」という自信が湧いて来て、20対1という重々しいプレッシャーも消えていき、不利を感じなくなり、円陣が動き始めました。
 この人数を動かすにはあまりにも小さな力で動きました。動かしている時は楽しく、動かされている方もやはり楽しそうでした。筋力対筋力でやったものは、負けてくやしい、今度は勝ってやるといった、わずかにも報復の気持ちが起こりそうですが、気で制したものは、そこに和がありました。

 この検証で、一人革命のあり方を改めて考えさせられました。やはり、まず自分が変わらなかったら始まらない事。自分が変われば、周りにも変化をもたらす事ができるが、自分を差し置いて周りを変えようとすれば、勇み足となってしまう。自分に実力も無いのに周りを変えようといくら頑張っても、今回の検証でいう所の、筋力対筋力の衝突になり、1対複数では、簡単に影響を与えられるものではないと考えられます。
 謙虚になり、自分の身の程を知り、そこから、確かな事実に裏付けられた実力と、本物の自信を身に付け、一人革命をあるレベルまで成し得たならば、気を通してもらい、円陣を動かすという不可を可とした様に、1人の力でも和をもって周りの人に影響を与えられると思います。そしてその輪は、広がりをもってゆくと思います。それは、円陣を動かした時に最初に加えた私の力より、私から離れる程、力が強くなって伝わっていったからです。
 今は、自分を変える為、サンチンを行ない、普段の生活の中で常に統一体側の行動とはどうあるべきか考え、実行し、時に駄目な自分、弱い自分に突き当たってしまう事もありますが、ゆっくりであっても、しっかりと前へ1歩、また1歩と進んで、力強く生きていける様、身体の中に確かなものを創り上げて行きます。

 

大地との繋がりを感じられるようになりたい   神奈川 学生 60歳 女性 M.T

 何時も道塾に伺うと、日本の現状を考えて憂い、頭でっかちで身体が動かなくなってしまっている事
に驚き、先生に気を通していただくと出来なかった事が出来て喜び、先生のユーモア溢れたお話に笑い、気の素晴らしさに感動して、気が充満した身体で足取り軽く帰ることが出来ます。
今行ってなっている稽古は頭で考えて得た癖を消去する、リセットする修行である。

統一体と部分体との違い。
百聞は一見にしかず。

 宇城先生を全員で囲み、みんなで先生の身体に触れていて何も動かしていないのに、何十人もの人が先生の周りをぐるぐる動き出す。手からエネルギーが伝わって来て、その渦に逆らう事は出来ない。
 DVD「サンチン 中巻」を拝見して、身体は動いて見えないのに中では渦を巻くような大きな流れが起きている事が解りました。居つくことなく常にエネルギーが動いている。
呼吸法も目の前でやっていただくと、三戦の型が写るように身体で感じる事が出来ました。
三戦、呼吸法を続けて少しでも大地との繋がりを感じられるようになりたいと思って居ります。

 

「一人革命している」恥じない自分に   東京 会社員 52歳 女性 K.M

 今回の道塾では、人はみな、技術の粋を結集して制作されたロボットでさえ遥かに及ばない程の、この上なく優れた身体を持って生まれついていながら、その能力を私たちが全くと言って良いほど発揮できていないことを、講義と演習を通して細やかに、かつ徹底して教えていただきました。また、「気が利く」という状態の身体がどのような状態であるのかを、演習で視覚的に確認できたことも、私にとって大きな学びとなりました。
 十数名の男性が、間を詰めて4列ほど横に並び、ひと塊となって立っている状態で、その最前列中央の人の前に立ち、両手を取ってその一団を自分の側に引き寄せるという演習をさせていただきました。当然自力ではビクともせず、逆に私が引っ張られてしまいましたが、先生に気を通していただくと、僅かずつですが皆を前に引き寄せることができました。ところが、その途中で気を抜かれるとまた微動だにしない状態に戻り、再度気を通していただくと引き寄せることができる、という演習を、スイッチのON とOFFを切り替えるように、数回繰り返して体験させていただきました。

 その短い間隔で、気が通った状態、気の通らない状態での私の身体の変化を、今回は非常に具体的に実感できました。まず自力で引っ張ろうとする時は、握っている両手の部分に力が入り、強い衝突を感じ、肩から腕を始めとして全身が強張り、引き寄せる以前に自分が身動きのとれない状態になりました。一方気が通った状態では、多少「自力でなんとかしたい」という気持ちは残っていたものの、肩の力が抜け、胸が楽になり、だんだんと重心が下がって体が安定してゆく感覚がありました。また、気持ちのほうでも、大きな違いがありました。気が通っていないときは「まったく動かせない」ことで頭が一杯になり、思考停止状態になっていましたが、気が通っているときは、漠然とですが自分の身体の変化や、演習自体を素直に楽しんでいる自分の心を観察する余裕がありました。

 道塾の翌日、その演習のことを思い出していたときに、腰のあたりから、背骨を中心としてフッと全身が緩む感覚がありました。前日の、気を通していただいた時の体感に似た感触です。そして、別の演習の際に「気を通された時にできたことを、自分でもその感覚を思い出してやってみなさい」と先生が仰っていたことを思い出しました。その時は「どうすればそうできるのだろう?」と思ったのですが、今は、もしかすると、こうして演習のときの状態を思い浮かべ、身体が自然にその時に味わった感覚を再現するなかで、そうしたことが徐々に可能となるのだろうか、と考えています。以前から何度か経験していることなのですが、宇城先生と腕相撲をさせていただいたときや、皆の前で演習をさせていただいた時のことを思い出すと、ほんの数十秒のはずの時間が、何度思い出してもその一瞬一瞬がコマ送りのような、非常にゆっくりとしたイメージで頭の中で再現されることがあります。今のところは、自分の印象の強かったものだけにこうした経験をしているのですが、もしかすると、自分がもっと集中力を持ち、心を開いて1つ1つの演習に取り組んでゆけば、もっと素直に身体が反応し、部分体の私たちが自ら壊してしまっている気のスイッチ、先生が毎回押してくださる気のスイッチが、いつかは自然と機能し始めるのではないのか、と直感的に思っています。

 これほど優れた能力を備えて生まれていながら、自ら部分体となり、その潜在力を全て封じ込め、おもちゃのロボット以下の機能で終始して、このまま人生を終えてしまっては本当に申し訳ない、このままでは終わりたくない、と今強く思っています。そして、部分体でいることが当たり前と思っているような横着な生き方を根本的に変えるために、この道塾に出会えたのだ、変化するチャンスを与えられているのだ、としみじみと実感しています。こうした得難い機会をいただいていることに改めて感謝すると共に、今回の体験を糧に、毎回の道塾にさらに真摯な態度で参加し、「一人革命している」と言葉にしても恥ずかしくない自分になれるよう、日々の生活において小さな努力を積み重ねてまいります。

 

関係を絶ってしまう人間は弱い   千葉 TVアニメ演出 40歳 男性 H.S

 今回、一番印象に残ったのは「我が強いのは一見強そうに見えるが実は弱い」と先生が言われたことでした。ご本の中でも、また道塾の講義中でも度々ありましたが、気を入れてもらい塾生同士で試し合う際、相手が「動かない、崩れない」ケースがありましたが、イマイチその理由がハッキリとわかりませんでした。ですが今回「負けまい、崩れまいとして相手を遮断してしまい、関係を絶ってしまうから。  気が切れてしまうと一見すると強そうに見えるが逆に崩されるとかえって危ない。胸元を開き、心を開いて気を通わせ合うこと」が大事なのだ、と改めて感じました。

『関係を絶ってしまう人間は弱い』
これはおそらく初級中級時でも言われたことかもしれませんが、なぜか今回、ハッとしてしまいました。強く印象に残りました。なにか、今まで教わってきたもの幾つかがひとつに繋がった、そんな感覚を覚えた気がしました。
「負けてはいけない」
「自分は絶対弱くない」
「格好悪く見られたくない」
「正しくなければいけない」など、
自分を守ろうとするとつい頑なになってしまう。だから「強さ」を求め、肩書きや武器を得たくなったり、上下にこだわってしまったり、負けたときの言い訳をしてしまったりしてしまう。
そうではなく、
「正しくなくていいんだ!」
「ただただまっすぐ、力を出し尽くこと」
「間違っていたら、素直に認めてやり直せす」

 投げられると一見負けてしまったように見えても、 気が通っていればひっくり返せる!見た目にこだわってしまうと、気がそこで切れてしまう。逆に気が切れなければ、パンチも握手も実は同じなのだと。 勝ち負けや見た目に捕われてしまうと、パンチはパンチにしか見えず、握手は握手にしか見えない。 パンチのような握手があれば、握手のようなパンチがある、そんな気がしてしまいました。

 では、なぜそれがわかっていても実際にはできないのか?それは先生の言われる通り「頭の癖、体の癖」が染み付いてしまっているのかもしれません。どうすればいいのか?今は、それらマイナス面を認めて、ひとつずつ取り組んでいきたいと思います。それは、道塾でのご講義を受けて初めて気づかせていただくことが多いです。道塾で気づき、普段の生活の中でさらに気づけるよう、心がけたいと思います。

 

体感した「身体は先に感じる」   神奈川 会社員 49歳 男性 M.W

 サンチン中巻を観せていただいてから参加できたことで、「武術は外面の力をいかに使わないか。つまり内面にかかっている」ということをより一層実感できたように思います。
これまでの受講で「筋肉は遅い、細胞は速い」ということを、徐々に実感できるようになっていたのですが、今回の実証では「心の発動がそのまま技となり、形となる」という事象をハッキリと体感いたしました。
 その実証とは、宇城塾長をぐるりと囲むように、隣の人同士ががっちり腕を組んで輪になった状態で行なわれました。私が押さえつけている隣の人の手のひらに、中央にいる宇城塾長がそっとご自分の手のひらを合わせます。そしてまず、力で押してみて動かないことを確認されました。ガッチリ腕組みしているので、我々はビクともしません。そして次の瞬間、何かが変わりました。
塾長が「わかった?」と微笑みます。「あ、きている」塾長はどこにも力を入れた様子もなく、ただニコニコしているだけ。でも、何かが来ているのを身体が感じます。まさに「身体先にありき」で、頭では何が起きているのか説明できません。しかし、次に感じたのは「あ、動く・・・止められない」動き出したのは、そう感じた後でした。「うわああ!」両サイドをそれぞれガッチリと腕を組んだまま、全員が得体の知れない見えない波にさらわれるように、同じ方向にドドドっと動き出しました。

 この体験で感じたことは、宇城先生の技、すなわち「気」というのは、今までの常識的な力学的パワーとか梃子の原理のようなレベルとは桁が違い、素粒子レベルのエネルギーなのではないかということです。伊藤一刀斎の「身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かう所に応ずる」という言葉も、携帯電話も宇宙ロケットも無い時代に、当時の人々が人間は筋肉の力に頼るのではなく、思いが発するエネルギーが重要ということを理解し、そこから生まれた術技を体現していたのだろうと思いました。
 また、塾長は「どこでもいいから触ってごらん」とおっしゃり、身体のあちこちを我々に触らせた状態で腕を握らせてサンチンの型の動きで投げたり、また複数を相手に腕相撲でひっくり返して見せてくださったりしました。何度か別な場所を触らせていただいたのですが、驚くべきことに、背中や腹筋、腰、肩甲骨のあたりはまったく動きません。ただ手が動くだけという感じでした。私は「これが内面の力か!」と驚きました。
 今回の体験を通じて、ひとつわかったことは、身体は先に感じるということです。道塾の空間にいるときだけかもしれませんが、塾長が「わかったやろ?」とおっしゃるような瞬間を感じることができれば、野生動物のように自然災害を事前に察知して逃れることが可能かもしれません。
 また講義の後に考えたこととして、塾長の気のレベルを現代科学が後追いしているということです。物質に質量(重さ)を与える未知の素粒子「ヒッグス粒子」は大発見として期待が高まっていますが、発見してどうするのかという問いに対しては、塾長はすでに「気」という形で自在に使いこなしているのではないでしょうか?
 このような、まさに未知との遭遇を繰り返し繰り返し体験する道塾の存在は、人生におけるかけがえのない時間として身体に刻まれているに違いありません。この経験をいかにして世の中に活かすことができるのかまだまだわかりませんが、人生の指針となる「利他の心」や「調和・融合の世界」を多くの人と分かち合いたいと思います。

 

型とは空手の型であり日本人の型でもある   静岡 理学療法士 49歳 男性 T.O

 この道塾は私がとても悩んでいる時、生きているのが正直しんどいなと思っている時に開催されることが多く、終了後はなんて小さなことに悩んでいたのだろうと、毎回元気になって自宅に帰ってこられることがとてもありがたく感じています。まさに、生きる活力を宇城先生からいただいております。本当にありがとうございます。
 今回も、仕事で大変悩んでおりました。しかし、宇城先生が「自分の生き様はすべてが侍になるための修行」とおっしゃられた時、全身の経絡に気が通った感じがして、頭からくよくよ悩んでいたことが吹っ飛びました。なぜ悩んでいるのか?一つの答えが出ました。悩みに目標がなかったから、ますます負の連鎖に陥っていくことがわかりました。宇城先生の様に、その悩みが侍になるための修行であるならば、どんどん悩みを受け入れていこうと決めました。
 また、宇城先生は「人はそれぞれ身体の癖、思考の癖を持っている。その癖を型で治していくことが大切である」とおっしゃられました。型とは空手の型でもあり、日本人の型でもあると思います。日本人の型とは挨拶・礼儀・掃除・気配りなども含まれるのでしょう。私が物事をすぐ悪い方に大げさに考えてしまうことは、私の思考の癖なのだと認識できました。その癖が頭をもたげてくるときは、きっと日常における日本人の型がおろそかになっているのだと思いました。日常での挨拶・礼儀・掃除・気配りをもう一度しっかり励行して、思考の癖を矯正していきます。
 私の仕事場である医療の現場では、先を予測して動く(機先を制す)ことが転倒・転落を防ぎ医療事故を起こさないようにすることや、人間関係を良好に保ち信頼関係を構築していく上でとても大切です。日本人の型を励行することを修行として少しでも統一体に近づき、いい仕事をしたい、いい人間に成長したいと今回の道塾で改めて肝に銘じました。

 

毎日のサンチンで新たな自分への期待が   埼玉 会社員 52歳 男性 T.T

 今回印象に残ったのは、部分体の「身体の癖」「思考の癖」を直すというテーマの中での
「情報は過去であり、それだけでは未来を予測できない」というお話でした。
 伺って思ったのは、情報という過去に頼っているだけでは、物事を頭脳で処理する「判断」の域にしか至らず、真の行動にはつながらなくて、未来に起こりえる事象に対しては身体で覚悟をもってする「決断」レベルでの思考が大切なのではないかということです。
 漠然と物を見てわかった気になってしまうというのは、物を見ている時間が停滞しているという「居付き」であり、「思考の癖」を取り除くには時間軸と空間軸を持った事象に対する身体的な接し方が必要で、それが「観の目」につながる統一体への道筋なのだと思います。
 様々な課題の答えを見つけ、解決のためのスピードを生み、生きる力を強くするために、肚が据わった状態で注意深い対応ができる統一体を作るための型稽古をする。そのように理解すると、毎日のサンチンで、また新たな自分への期待が生まれます。
その期待を周囲への良い空気づくりに活かせるように型の稽古を続けていきたいと思います。