2013年 東京上級 第3回 (2013.6.25~26)

身体の感覚を思考より先に   埼玉 不動産業 46歳 男性 K.S

 今回の検証で、先生1人に対し、6、7人位の縦列を3列作り、先頭の人は隣の人と腕組をし、後ろの人は、前の人の腰の辺りをしっかり抱え固定し、対峙しました。先生は、列中央先頭の人にナイフを持った状態、柄だけの状態、何も持っていない状態など、何種類かのパターンで検証を行ないました。最終的には何も持っていない状態でも、我々は圧倒、制され全員後ろへ軽く押されてしまいました。
 その時、私は先頭の左側をやらせていただいておりました。先生は中央の人に向かって行くので、中央の人は怖そうだな、と思いながらも、私は特にプレッシャー等は感じませんでした。しかし、押される時は大きな力に抵抗できず、全体が動いてしまいました。その様な中で、実際の私の感覚は、右ひじを引っ張られて下がるのではなく、体全体を持っていかれる感じでした。
 更に、ふと気付いてみると先生が近付いた時、何も感じていないはずが、中央の人よりも私の方が後ろにのけぞっている時もありました。五感には何も感じませんでしたが、身体は何かを感じ、反応した様でした。本当はいち早く身体で感じたものに気付くべきでしょうが、思考が邪魔をした感じがします。
 やはり、自分の身体の感覚を思考より先に置き、自身の身体に対して素直に心を開かなければ、見えないものが分かる様にはならないと思いました。人間は思考するものなのでしょうが、同時に身体から投げかけて来るものに常にオープンであり、思考が呪縛となる状況では一瞬で断ち切る必要を感じました。人生の中では重要な決断に迫られたり、素早い判断が必要な時がありますが、簡単な事では無いでしょうが、その時にこの様な感覚を持った直感は正解に導いてくれる気がしました。

 

心がなければ知力も無意味   静岡 40歳 男性 D.H

 心がなければ知力というものが如何に無意味かということが解りました。
本質を見抜く力、直感というものが日常のなかで身に付いてくるということ、人類が獲得した大脳新皮質は、延髄、大脳基底部の生きる為の力、人間としての基盤があってこそ生かされる分野だと感じました。
 昨日「朝日のあたる家」という原発の問題を描いた映画の完成試写会に行って参りました。私の住む町、静岡県湖西市で撮影された映画なのですが、福島の問題から日本人の平和ボケを認識させられる、そして経済界が日本の裏を動かしている現実を世に訴え、全てを敵に回してでもこの映画を世に出された監督の本質に感動しました。テレビ局、新聞社、政治家、何を信じたらいいのか分からない世の中になっていますが、この映画が全国、そして世界で上映されることを願います。

 

「まず行動」の精神で   東京 会社員 52歳 女性 K.M

 冒頭の講義では脳の側面が描かれ、大脳皮質、大脳辺縁系、海馬それぞれが生きる手段、生きる力、体の生きる力に関わる働きをしていること、大脳皮質に支配された動きが部分体、大脳辺縁系が統一体と深く関わっていることを教えていただきました。更に、北海道、東京、沖縄の3地点で体重を測定した場合、その数値は同じだろうかというお話にはじまり、健康診断の1項目であるBMIが実態を反映しない表面的な目安にしか過ぎないことを例に取られ、私たちがいかに目先の判りやすい数字に騙され、物事の本質を見過ごしているか、部分体的なものの見方に終始しているかを教えていただきました。
 さらに、本来は10才までには基本的な発達を終えてしまう大脳辺縁系に「気」で働きかけ、統一体として生きることが可能となること、毎回の道塾で先生は本来であれば「手遅れ」の私たちの脳に気を通すことで穴をこじ開けて、統一体として人間本来の力を発揮する土台を作って下さっていること、そして、実は改めて気を通すことをしなくとも、道塾の場に集っているだけで統一体のスイッチが入っているのに、私たちが自分を信じていないがために、その力が使えていないことを教えて下さいました。実際、塾生のなかには職場や普段の生活の場面で、線路に落ちた人を咄嗟に救助するなど、大小様々な「奇跡」と呼べる現象が起こり始めていることを例に挙げられて、皆がそれぞれに、もっと力を発揮できる土台は既に養われていることを強調され、大きく背中を押していただきました。

 道塾を終えて会場を出ると外は雨だったのですが、信号や車のヘッドライトに照らし出される雨粒1つ1つが、なんとなくいつもよりはっきりと見えました。普段でしたら、「雨か、嫌だな。」と傘を差して黙々と道を急ぐのですが、その夜は、時折風に舞って夜空から降り注いでくる雨粒までが愛おしく、一歩一歩大地を踏みしめて歩けていること自体を嬉しく感じ、周囲の音が明瞭に聞こえるようで全く聞こえないような、不思議ですがとても心地良い感覚を味わいました。また、凝りがひどく常時強張っている肩を上下させてみましたら、いつもでしたらギシギシと音がしそうなほど引っかかりを感じるはずが、軽やかに上下に動かすことができ、体が解放されている感覚がありました。この感覚は、合宿で2日間終始気を浴びせていただいた後に感じる体感と非常に似ており、これまでの普段の道塾の後では味わったことのないものでした。これはきっと、「先生と同じ場にいるだけで気が通っているのに、それを自分が信じていないから変われてない」という先生の言葉が私の心の奥深くに刺さり、頭で考える前に、身体がその言葉に素直に反応したからではないかな、と思いました。

 「貧すれば鈍する」という諺がありますが、経済の停滞だけでなく、精神の面でも貧しくなった日本では、話す言葉が乱れ、当然それを用いる思考が乱れ、真心を失くし、内向きで利己的な行動を良しとして保身に走る人々が非常に増えました。かくいう私も、その国土に生きているわけですから、心身ともにその環境の影響を強く受けており、生まれ持っての衝突の心が強いこともあってか、頑なで薄情かつ小ずるい動きをする傾向があります。そんな私ですが、道塾に集うたびに、自分のそうした心根の貧しさを、先生の講義や演習、時には一緒に学ぶ塾生の振舞いを通して、明に暗に教えていただけることに本当に感謝しています。きっと、私の「心」の課題は、今自分が把握できているのは氷山の一角で、実はもっとずっと根深いものではないかと思います。けれど、その課題と向き合い、行動を通して変わることができてこそ、本当に気が通る心身を養えることになると思いますので、これからもこうした内面の発見の1つ1つを楽しみ、またこのような気づきを与えていただける宇城先生と道塾に感謝しながら、「まず行動」の精神で毎日取り組んで参ります。

 

たどり着くところは「真心」   千葉 会社員 44歳 男性 Y.T

 今回の講義で先生は「人は魅力で惹きつける」というお話をされました。
魅力のない人間に人はついていかないとも仰っておりました。検証では連なった5人の先頭が相対する人の体に指をつけ、その指ごと列を引っ張れるかとういうものを行ないました。 
通常の状態では当然の如く指は離れてしまい、列を引っ張ることは到底できません。
先生に気を通していただくと、列ごと引っ張ることが出来るようになりました。

 人の持つ魅力とか、人に好かれる力というのは一体どういうものなのでしょう。もしそういったものを身につけられたら素晴らしい人生を送れることでしょう。
自分が道塾に参加するきっかけになったのもそう考えたからでした。
先生の著書に触れ、DVDを拝見し、こんな力を身につけられたらどんなに素晴らしいことだろうと実践塾に申し込みをさせていただき、道塾をご案内いただきました。
 「魅力」を身に付けようとか、人に好かれたいと思うのは、先生の仰る知性脳(生きる手段)であり、感性脳(生きる力)ではありません。How toで身につける技術は小手先の「手段」を考えているだけで、好かれようとか良く見られようという気持ちとは逆方向に作用してしまったりします。そんなことに気づく事ができなくて、守るべき関係を壊してしまったり、大切な人を失ったりしてきました。
理屈に頼ると生きる手段に偏って、どう生きるべきかを忘れてしまう。
自分可愛さに人の気持ちを慮ることを忘れ、自分を優先してしまう。
人を惹きつける「魅力」を身に付けるには、どうしたらいいのか。
そう考えること自体が「手段」であって、魅力のある人はそんなことを考えることもないのでしょう。

 以前、人の為という行動は偽りになるとういうお話がありましたが、自分は最初その意味が良く理解できませんでした。
友人の子供が3歳の時の話です。 
母親が熱を出して寝込んでいるとき、誰も何も教えていないのに流しにたまっていた皿を洗い出したことがあるそうです。おそらくこうやって洗うんだということを見ていたのでしょう。そしてそれがお母さんを助けることなのだというのも教えられなくても分かっていたんですね。お母さんはそれを見て涙が出てきたそうです。何も知らない小さい子供が褒められるためじゃなく、ただそうしたいと思って利他の行動をするということが、本来人間が持っている力なんですね。そうやって助け合いながら生きていくのが人に刻み込まれた正しい生き方なのだと思います。 

 頭で考える「思い」の一つ手前にある「心」からの行動でなければ偽りになってしまうのかも知れません。魅力も意識しない心の奥から湧いてくるものなのでしょう。やはりたどり着くところは「真心」なのだと感じました。 
 先生の講義はいつも結果が先に出ていて、後からそういうことだったのかと思えることがとても多く感じます。体は先に理解しているのに頭がついてこられないから居ついてしまう。
気づきながら変われないでいるのは、やはり自分も手段で生きているのだと感じます。
先生にはいつも種を撒いていただいております。水をやり、光を当てることを忘れずに芽を出す努力をしていきたいと思います。

 

躰の変化を的確に感じる事を次のゴールに   静岡 神職 43歳 男性 K.M

 道塾に向かう電車の中で、何か先生に技をかけていただける確信がありました。
統一体で投げられたボールと統一体でない身体で投げられたボールの違いを、以前からバッターボックスに立つかキャッチャーで受けるかで体験してみたいと思っていました。
普通体でのボールは、ボールの軌道を全て目で追う事が出来ます。統一体でのボールは、見えたと思ったらすぐキャッチャーに到達します。打てる気が全くしません。
「バットに当たったら統一体のボールは重たいのだ」と、先生がボールを統一体で落とす検証で体験出来ました。
 指を肚に当てて列を動かす実技では、一歩目を恐る恐る動かしましたが行けると感じたのでいろいろな動きをしてみました。
自分の躰で気を通していただいて出来る自分と、普段の躰の変化を的確に感じられるようになることを次のゴールとして進んでいきます。

 

もっと自分を信じて行動することを大切に   東京 会社員 27歳 男性 O.M
 今回一番心に残ったことは、「疑心暗鬼」と「信じる」という先生のお言葉でした。
先生の御講義の中で、自分はできると「過信する」ということと、人間には素晴らしい可能性があるということを「信じる」ということは、全く別物なのだということを感じました。本当にできているのかを客観的に検証する態度は必要ですが、それ以上に、未知のこと、ご指導いただいていること、そして、気を通していただければ「できる」ようになる自分のことを、もっと信じることが大事なのではないかと思いました。
 「疑心暗鬼」について調べたところ、「疑心」は仏教の「六根本煩悩」のひとつで、仏教の真理に対して疑いの心を持つこと、という意味だそうです。経典や説教とは違い、先生のご指導では、実際に身体を通じて真理を体験させていただいているのにも関わらず、まさに私は、先生を信じる、ご指導を信じる、自分を信じる、ということができなくなっていたのだと感じました。古代には証明や検証といったものはもちろんなかったかもしれませんが、昔の人はもっと信心深く、それゆえに人間的な生きるエネルギーに溢れていたということがあるのではないかと思います。 
 95%の未知の世界に対して、もちろん最先端の理論や発見といった情報を取り入れることも大事ですが、それ以上に、永遠に解明されないその深遠な世界、真理を、信じるということがより大事なのではないかと思いました。未知に対して、それを部分的に解明して分かった気になるのではなく、その神秘さに触れ、その存在を信じ、行動することを、もっと大事にしていきたいと思いました。

 先生のご指導は天動説から地動説へのパラダイム転換よりも、もっとすごいことなのではないかと感じています。それは、部分体から統一体へという転換が、世界中で起きている様々な問題、戦争、差別、自殺、飢餓、貧困といったものに対する根本的な処方箋となると同時に、創造、希望、愛、平和といったものに対する、根源的な導きとなると思うからです。特に日常生活や人生に与える影響では、地動説よりも、統一体の方がはるかに大きいのではないかと思います。そういった超最先端の講義に接することができる我々は本当に幸せですが、同時に、少しでも先生のご指導を受け止められるよう、必死の努力が求められるのではないかと思っております。
 謙虚に自分を見つめながら精進することと同時に、これからは、もっと信じて行動するということを心がけていきたいと感じました。