2013年 東京中級 第5回 (2013.9.9)

腑に落ちた、「いいとこどり」はなぜダメか   千葉 自営業 38歳 男性 CN

 今回も貴重な学びの場をありがとうございました。
 まず最初に海外の番組を見せていただきましたが、以前先生が何かの時に仰っていた「必要な情報が勝手に入ってくる」というのを思い出しました。講義の中で私たちがわかりやすいように使ってくださる資料も、探してというよりも自然と先生の下に集まって来てるんではないかと思います。
 自分の中に強いものを持って、思考していかないと必要な情報が何なのかさえ解らなくなり、情報に振り回されるような時代であるとおもいますので、情報の真意がわかるようになっていかなければいけないという思いと、必要なときに必要なものが受け取れる人間になっていきたいと感じました。
 
 ミラーニューロンのお子さんのお話では、両親が必死の愛情を持って子供に接し、最新のリハビリの仕方を知ったということだけでなく、「手だけを見ているのではなく、全体を見ているんだ」と気がついた事が大きかったように、自分たちも先生からの教えを部分的に捉えていないか、ノウハウのように部分的に捉えていないかをあらためて問われたようにも感じ、同じ教えを受けても伸び方に違いがあるのはこういうことだとも感じさせられました。
 同時に、映せないのはつくづく自分の横着、素直さの欠如にあるのだと映像を見てあらためて感じました。高校生のすい臓がんの検査のお話も、まさに先生がいつも言われている「心あり」が行動の源になっている事例でした。様々な障壁がありながらも、貫通するように進んでいくかのような行動力は、先生が見せてくれる技のようでもありました。
 このような映像も先生と出会っていなければ、もし眼にすることがあったとしても「すごいな」で終わってしまったと思います。先生の教えがあるからこそ、違った感じ方見方ができるのだと思っています。リンゴの木村さん、キャベツのお話なども聞けば聞くほど違う分野でも本質は同じなのだと感じました。
 自然栽培の葉っぱやキャベツの自己防衛の手段などは、まさに生まれながらに完成形であるとの言葉を思いだしました。
 そしてその素晴らしさに目を向けるよりも、それを分析して商品にしようという発想は、部分体的で人間の横着さを表しているとおもいます。
 このお話を聞かせていただき、「いいとこどり」はなぜダメかというのが自分の中で腑に落ちました。いいとこどりというのは、過程や時間や流れ経緯などは全く無視され一部分的にクローズアップし、後はその人の都合次第でいくらでも話の前後のつじつまを合わせるような事であるため、バラバラであり一つにはなりえない事なんだと今の段階では理解しました。
 部分をつなげていっても一つにはならない、部分で捉えている間は時間が止まりつながっていかない、物事の全体がつかめていればいろんな場面に遭遇しても用意していた答えではなく、先を見据えた対応ができるのではないかと強く思いました。
 
 講義後に外で先生が塾生の方に、ゴルフのスイングの指導をされていました。短時間の間にその方のスイングが、見ていた自分たちが思わず声をあげてしまうほど変化していったのがとても印象的でした。そして、講義中となんら変わらない熱で指導される先生の姿に感動したのと同時に、先生から指導をいただける身にあるのだからこそ、自分を信じ心を開いていくことを常に実践しながら先に進んでいきたいと思います。

 

自分の課題克服のためには心を開くこと   神奈川 自営業 42歳 男性 T.K

 冒頭に海外での番組にて、脳梗塞の小児に対するミラーニューロンを理解したリハビリや、15歳で膵臓ガンのマーカーの発見という事例を紹介していただき、先生が常日頃から伝えようとされていることへの理解がより深まりました。
 2つの例は共に心を起点とした行動であるからこその成果であると思います。

 リンゴの木村さんの自然栽培でのリンゴの葉は虫食いが一か所でストップしていることから企業がそれを分析して技術開発をしたが、最初だけ成果が出るだけという結果は、先生の仰る通り、いいとこ取りの発想であり部分体故の考え方であると思います。こういった発想では冒頭のような事例は起こり得ないということが解りました。

 「学」とは本来、自分が行使したことに成果が出なかったことに対して何故なのかを問いかけ、追求する事。ノウハウのように成り立たせることが目的ではない。ということを聞いたことがあります。先生の仰る勉強とはそういうことなのだと理解しました。それはまさに技術開発から始まり、結果を検証する後追いの科学であってもそこにヒントを見出だそうと今でも学ぶ姿勢を変えない先生の人生そのものでもあるように思いました。
 無から有を作りだすための学ぶ姿勢とはそういうことであるのに対し、私達は世の中の様々な事例が存在している中でのほんの点ほどの事例を報道によってそれが全体像のように理解されているという、ボードに書いていただいた図のような理解の仕方であり、それは正に部分体であり、無知そのものです。知ったというだけでは無知と変わらないのだと思いました。無知からは有を作りだすことは出来ません。

 しかし、「世の中はそういうものであり、簡単に変わるものでもない。だから一人革命なのです。」という教えをいただきましたが、それは山籠りのように人里から離れることではなく、世論の認識を無視することなく自分の軸となるものを作り、育んで行く行動であると理解しました。
 一人革命という言葉の後に「自分を信じる。人間を信じる。」という言葉を付け加えられてましたが、その言葉を聞いた時に、自分という人間のみならず周囲の人間を信じるという思いが浮かびました。それが調和であり統一体なのでは・・・と思ったのです。そう思えたのはそれが今の自分の課題であるからです。そういった課題を克服できるよう自分に存在しているはずのミラーニューロンに先生の生き様を写せるよう心を開き、講義に臨まなくてはという思いをあらためて強くした時間でもありました。
 課題が浮かび上がり自省もありますが、いつも「気」を遣っていただき身体を通して前向きになって帰路に着けることに感謝しております。

 

「衝突の心」を直してゆきたい   東京 通訳 52歳 女性 K.M

 今回の道塾では、「調和」の力を視覚と体感で改めて実感することができました。 
 男性5、6人が両隣と腕を組み縦に数列並んでいる状態で、女性がその最前列の中心の人の胸のあたりを押してその一団を崩す、という演習がありました。まず自力で押した際は、当然ながらビクともせず、傍目にも押されている箇所で力が反発しあって相殺されているのが良く判りました。 
 ところが、先生に気を通されたとたん、その一団がエネルギーの塊となって、むしろ彼女の手のほうに吸い寄せられるかのごとくわずかに前に傾き、彼女はそれを柔らかに受け止め、ごく自然にそのエネルギーの塊ごと押し崩していました。その後に、先生がその集団に全く手を触れずに左右、前後へと自由に動かして見せて下さったときも、個々の人間ではなく、1つのエネルギーの塊として自在に操られておられることが明白でした。 
 何と表現したら良いのでしょうか、透明で、網膜に画像が結ばれているはずないのものが、別の視覚でハッキリと観えているような、不思議な感覚を味わいました。また、2人組みとなって本来の「脇を絞める」状態を確認する演習でも、エネルギーの一体感を味わいました。
 肩幅に立って両肘を軽く上げ、片方の脇の下にパートナーが真っすぐに伸ばした腕を挟み、上半身を捻って相手を動かす、というものだったのですが、自力の場合は、体を捻った時点で相手の腕と自分の脇がその一か所でぶつかりあうだけで、全く動かすことはできませんでした。 
 気を通していただくと、相手の腕も自分の体の一部のような感覚となり、軽く上半身を捻るだけで、投げ飛ばすような勢いで動かすことができました。逆に自分が脇に腕を挟む側になった時も、相手に気が通っていないときは互いの力を消しあっているのがよく判りました。
 また、気が通された状態では互いの力が融合、倍増して何の衝突もなく、全く抗うことのできない圧倒的なパワーで動かされてしまいました。
 衝突はお互いのエネルギーを殺し合い、本来持っている力を全く発揮できなくする。調和すると、お互いを活かすだけでなく、個々の力以上のものがごく自然に、爆発的な勢いで発揮される。

 今回の演習を通し、自分の抱えている「衝突の心」を解決することが、どれほど重要であるかを学ばせていただきました。衝突することで、相手も自分も活かすことができず、その上に横着な生き方も手伝って、先生の仰るとおり、生きている年数分だけ充実した人生とはなっていない、カラ回りの多い生き方をしてきたことに気づかせていただきました。
 毎日の生き方、過ごし方において自ら作る原因が、未来に結果となって現れることを考えますと、この「衝突の心」によって私はこれまでたくさんの負の原因を作り、それが現在の生活に確かに現れていると感じます。ものごとの全てにおいて、この「衝突の心」がどれほど悪影響をもたらしているのかを、今回の道塾でより一層はっきりと自覚することができました。

 道塾で、合宿で、様々な機会を通して先生にご指摘いただいてきた自分の「衝突の心」を、今後は更に深く見つめ、直してゆきたいと思います。そして、これからの人生を、調和の心で人を活かし、自分も活かせる密度の濃いものにしてゆきたいと思います。
 また、心を磨き、気の通る身体を目指すことで、五感以上の感覚を研ぎ澄まし、精神面においても日々の生活を豊かにしたいと思います。

 今回の道塾の数日後、夜近所の公園を通りかかった時、秋の虫の声が耳に入ったのですが、それがいつもと違って、とても立体的に頭の中に共鳴するような感覚がありました。気を通して頂いた時の、静寂のなかで、周囲の音が研ぎ澄まされて聞こえる時の感覚でした。その時ふと、もしかすると古代の人々は日常的にこうした感覚を味わっていたからこそ、万葉集のような壮大かつ繊細な歌が詠めたのでは、と思いました。古典の歌集が好きで、ごくたまに万葉集を読むのですが、悲しいかな、現代語訳や解説と一緒に読んでも、その情景を頭で想像するのが精いっぱいで、身体ごと味わうことができないのを非常に残念に思っていました。ところが、虫の音が聴覚だけでなく体に響くように聞こえたときに、現代の感覚では丘としか呼べない香具山を壮大に詠いあげた古代の人の感覚に一瞬触れたような気がしたのです。
 五感でさえも激しく鈍化した部分体の私ですが、サンチンを繰り返し、心を磨き、するべき事を行動に移すなかで、もはやセンサー自体が消滅しているような感覚を蘇らせ、いにしえの人々の遺してくれた言葉の宝をより豊かに味わえる人間になりたい、と思いました。
 「気」を知ることは、人生のあらゆる面において豊かになる機会を見つけることだと感じています。そして、他の誰にもできない形で、それを教えてくださる宇城先生に心から感謝しています。
 私もいつかコップ1杯の水の一滴になれることを目指して、横着な自分を叱咤して参ります。
 今回も本当にありがとうございました。