2013年 東京中級 第2回 (2013.3.13)

善性に向かうことが大事   千葉 自営業 38歳 男性 C.N

 今回も深い学びの場をありがとうございました。
「身体は気に従い、気は心に従う、心は理に従う」「人間には善性と悪性がある」
という先生の言葉がとても印象に残っています。
 道塾での講義をどうにか頭に残そうとしていた時は、あらすじを追うように後から頭の中に講義のことが残っていますが、その反面実際の生活には活かせていないと思っていました。やはり頭の理解というのは所詮自分の容量内での出来事であります。それに気がついてからは、ごちゃごちゃ考えずに先生の雰囲気に入る、頭で入るのではなく身体で入るというか、身体ごと浸かるというような感覚で講義を受けさせていただいています。
 すると、以前は同じ空間にいながらも違う時間を過ごしてるかのように後追いするのが精一杯のような時もありましたが、現在は逆に頭には事細かく残っているわけではないですが、というより頭は追いつきません。しかし、同じ空間を過ごさせていただいているという実感があります。日常の中でも、こだわりつまずいていると自分の時間が止まってしまうのを感じられるようになってきました。

 それが以前は体感としては良くわかっていなかったと思いますが、現在は自分の中で以前と比較できるようになったために、逆に止まってしまう時の自分が明確に解り、不甲斐なさにとてもイライラすることがあります。そして、そんな時は必ず暗いし、場も濁ったような感じになり出来る気がしません。それでもそのままやろうとする時の自分に苛立ちを覚えます。しかし、その逆に時間が止まらないときは、まず先に出来る確信があり、余計なことをする暇なく進めます。楽しく場が活きているとも感じられます。自分が心だと思っていたものは、頭が作り出した心であったと思います。その心から気が出るわけがありませんし、身体も頭からの命令で動くしかなくなってしまいます。
 先生の動きというのは絶対に頭では不可能な動きです。言い換えれば頭ではパターンを増やしていくことしか出来ないのだと思います。どんなにたくさんのパターンをつくっても自由ではありませんし、ブツ切れです。なぜブツ切れになっていくかというのは、根本が善性ではないからだと思います。それは心に繋がっていないために、欲や損得に繋がりその場しのぎになってぶれてしまい、統一されないのではないかと感じます。
 講義の中の善性悪性の図を見て、悪性の末端にいれば善性まで遡るのは用意ではないことです。しかし、それに気がつき善性に向かっていくことが大事であると感じました。
 先生は本当にどんな局面でも出し惜しみなく全てを示していただいています。何気ない言葉の中に含まれる深さに気がつけなければ、自分達の成長はありません。先生の厳しさの中の優しさ、優しさの中の厳しさを勘違いしないように学んでいきたいと思います。

 

善性は「心」が起点   神奈川 自営業 42歳 男性 T.K

 今回は冒頭に善性と悪性についての説明をいただき、なぜ道塾に参加した後はいつも「気」が晴れているのか解りました。なにか良い意味で童心に帰るような感覚と思っておりましたが、「生まれた時は善性しかない」という先生の言葉に、生まれた際に持っていた感覚が蘇っているのだと思いました。だから、様々な分野の方々でも共通して学べるのだと思います。
 しかし、生まれた際にすでに持っていた感覚を呼び覚まさなくてはならない程、現代は悪性の物が増えているとも言えます。「ブッタの時代から善性と悪性という概念はあった。便利になった半面、欲が先行し昔より悪性が増えた」というお話と共に、悪性という幹から多くの悪性という枝が枝分かれした図が非常に現代を象徴しているようでした。その悪性から善性へ向かうことが修行であると、その善性とは「心」が起点となっていると教えていただきました。講義にて度々お話される、松下電器の創業者である松下幸之助は、幼い頃より丁稚奉公に出て、たまに実家に帰った際でも母親に甘えようにも家事が忙しく、あまり接することが出来なかった経験から、日本中のお母さんを楽にさせたいという思いから様々な発明を成し遂げたというエピソードを思い出しました。まさに「心」が起点となった善性での仕事だと思います。現代は、自分を含めて何かそういった仕事における原点を忘れてしまいがちになっているように思えます。先生が仰るように「無から有をつくる」ことが仕事の原点でもあり、それは左脳だけでは出来ません。左脳優位になってしまっている日常がそういった原点を忘れさせているのだと思いました。
 型の指導の際、講義にて説明されたことを「型に乗せる」と教えていただいたことにも感動しました。通常は細かい順番や動かし方などのハウツーから入ると思いますがそれは左脳への指導です。もちろん直ぐに学びを型に乗せることは出来ませんが、先生の今までの経験や発見を毎回様々な角度から丁寧に説明していただき実技に入れるというのは大変恵まれた幸せなことです。そしてこれほど善性というものをはっきりと指し示していただき、身体で検証できる場は他にはありません。今後もそこに甘えることなく、もっと身体で学べるよう精進し、教えを日常に乗せれるよう学んで参ります。

 

人は正しい心によってこそ進歩・成長する   東京 会社員 35歳 男性 K.A

 今回のクラスで特に感じたのは、正しい心によってこそ人は進歩・成長していけるということです。講義の中でご紹介いただいた、カンボジアの歴史的建造物に描かれている「槍を持った人」のエピソードは非常に興味深いものでした。「槍を持っている」ということが何を表しているのかというと、これは他人との争い、戦争を表しているのではなく、自分の心の中で善性と悪性が戦うこと、自分との戦いを表しているということでした。そういった大事な考え方を建築物で表現するとは、昔の人の知恵は凄いと思いました。
 また、悪性の心でたとえ何か目的を持って一生懸命努力していったとしても、それが間違った方向であれば、結果として何の価値も意味も残らないのだと思いました。例えば、スポーツの世界でも活躍すればテレビに出たり有名になりますが、その後不祥事で転落していく人も珍しくないのが現実です。見ている側としても一生懸命やってきただろうに何だったのか・・・という思いをすることがあります。「有名になりたい」とか「お金持ちになりたい」とか、そもそもの心の出発点が間違っていると不幸になってしまうのだと思いました。
 一方で、先生に教えていただいている武術空手は、先人たちがまさに命をかけて築き上げてきたものであり、どこまで行っても「上には上がある」限界のない、深遠な世界です。そこには驕りや慢心、これでいいやという妥協はありえません。このような心の持ち方、姿勢を学べることは大変なことです。宇城先生に学んでいることを家庭や仕事など日常生活で実践し、自らの人格形成ができればと思います。自分が変わることは小さな変化かもしれませんが、一人革命として身近なところから周囲をも変えていければと思います。

 

統一体で心と体を鍛え続けていきたい   東京 会社員 39歳 男性 T.T

 今回、鍛え方について教えていただきました。部分体での鍛え方が如何に時間を無駄にしているか。しかも、部分体での鍛え方、考え方はただ時間を無駄にするだけでなく、自分の次元も下げてしまいます。今の日本の状況を見れば、経済的には豊かになりましたが、一方、心はどんどん貧しくなり、これまでの考え方、鍛え方、教育は部分体であり、間違っているのは明らかです。しかし、今までの常識からなかなか抜けられず、どこか今までの考え方に依存してしまう。宇城先生の言い方は優しい口調で統一体と部分体の説明をしていただきましたが、いつまで間違った世界にいて、どうして抜け出してこないんだと厳しく叱咤されたように思いました。
 また、先生の仕事の実体験でのお話を聞き、統一体の考え方、行動、自分に対する厳しさを感じ、如何に自分がぬるま湯の中にいるかと反省いたしました。忙しい毎日ですが、ただ闇雲に頑張っているだけではだめなのです。今の私の心はまさに忙。これを愛に変えていかなければなりません。
 そして、サンチンの指導がありました。宇城先生は手の位置がどうだとか、足の位置がどうだとかいった指導はされません。サンチンをするから鍛えられるのではなく、日常の様々な事を如何にサンチンに取り込んでいけるかと仰います。サンチンを通じて重力を感じ、自分の身体と対話して、そして「ゴミを拾う」「道を譲る」「星や自然を見て綺麗だと思う」といった日常に結びつくよう、統一体で心と体を鍛え続けていきたいと思います。