植芝吉祥丸道主のこと

 植芝吉祥丸先生には、数えきれないほど取材をさせていただきました。私が初めてお会いしたのは、昭和58年の5月でした。たしか植芝盛平先生の生誕100周年を祝う大規模な祝賀会が行なわれた直後のことでした。

 吉祥丸先生の少年時代から戦時中にわたる修行時代、合気道の基盤を一歩一歩固め、広めていく戦後の時代の苦労の数々など、話はつきませんでした。印象にあるのは、「いつから合気道の修行を始められたのですか」の質問に、吉祥丸先生が「生まれた時から合気道をやっていた」「母親の腹のなかにいるときから始まった」と答えられたことでした。父である盛平先生とずっと共に歩んできたんだという思いが、その言葉に込められているように思いました。

 また戦時中、東京が空襲にあった時に、道場周辺が大変な火事にみまわれ、吉祥丸先生が近所の方と命がけで奔走して道場を戦火からまもった話は、とても臨場感があって、「私がいなかったらこの道場はありませんでした」という言葉に、まさにその通りだと思ったのを思い出します。あの時に、道場が焼けていたら、合気道の歴史は変わっていたかもしれないと思うと、一つひとつの史実が、何か奇跡のようにつながっているように感じます。

植芝吉祥丸先生とプラニン 吉祥丸先生には、スタンさんはことあるごとに会いにいき、お話をうかがっていました。それは、吉祥丸先生には、会見させていただく以外に、盛平翁の歴史的な事柄についてわからないところを確認させていただくという目的があったからです。

 スタンさんは、合気道開祖である植芝盛平翁のことをくまなく知りたいと願い、その生い立ちから、武道修行の詳細、歴史的背景、技術的なことまで、本当に広範囲な調査を試みていました。

 取材の基本は会見というスタイルにありましたが、昔の資料を読んだり、情報を得たりすると、スタンさんはその真意や背景などを必ず詳しい方に自ら出向いていって確認し、真実を伝えるということを何より大事にしていました。ですから当然、盛平先生の歩みを一番ご存知の吉祥丸先生にお会いする、というのはスタンさんにとってはとても大事なことであったのです。

 合気道を戦後飛躍的に発展させていった弟子たちの、入門当時のこともよく話をされていて「多田君は昭和24年に入って、有川君は昭和23年頃かな。山口君が昭和26年頃で、奥村君は昭和15年からです。大澤氏は昭和16年、藤平氏と同期だったな。岩間の斉藤君は昭和22年頃かな……」というように、何も見ることなく、ポンポンとそうそうたる合気道師範の入門の様子を語る吉祥丸先生にとても感心したのを覚えています。

 その多くの場に同席させていただいて今あらためて思うことは、会見取材という形でなくアポをとっても、吉祥丸先生は、一度もスタンさんに会うことを拒まれることはなかったということです。そして間違いは間違いであるとはっきりその場で言ってくださったこともありがたいことでした。

 日本的なしがらみなどなかったスタンさんは、自らの研究のために誰に遠慮をすることもなく、独自に盛平先生のお弟子さんに取材を重ね、独自に演武会を開催していました。道統を守る吉祥丸先生のお立場からすれば、ある面、私たちは「困った存在」であったかもしれません。しかし吉祥丸先生は、私たちを、決して拒否したり遠ざけることなく、いつもまっすぐ向き合ってくださいました。そのことに吉祥丸先生に心から感謝しています。きっとスタンさんも天国で同じ思いでいると思います。

 これはおまけですが、吉祥丸先生はなんとスタンさんの結婚式にも出席くださっているのです。まずは畏れ多くてご招待しないと思うのですが、スタンさんは自然体です。そしてなんと、吉祥丸先生だけでなく、合気会からは、斉藤守弘先生、黒岩先生、そして養神館の塩田剛三先生、井上強一先生、大東流からは近藤勝之先生をお呼びしたのです。かなりラフなパーティだったのですが、お酒も進み、なんだか次第に同窓会のようになって、先生方は昔に戻ったかのように無邪気にお話をされ、吉祥丸先生は皆さんから「きっさん、きっさん」と若い頃の呼び名で呼ばれたりして、とても楽しげにされていたのを今でも思い出します。

 最後には皆で腕を組んで歌を歌い出したのには、さすがにびっくりでしたが、それもこれもスタンさんだったからこそ、先生方が見せてくれた素顔だったんだなと今では思います。(木村)

 

 吉祥丸先生に取材で伺ったすべてのお話を、会見集にまとめています。
 [ 会見集 『植芝盛平と合気道 第一巻』]

 

 [『合気ニュース』編集長 スタンレー・プラニンとの取材の思い出]